第18話 湯快的悦

「メロンパンがおいしいんだって。でも甘いものよりしょっぱいものが食べたいな。あ、お蕎麦。いいかも。このバーガーもおいしそう」


 思い出の地へ、思い出を忘れるための一泊旅行。


 唐突に決まったこの計画に最初こそ戸惑いはしたものの、もう走り出してしまっているのなら仕方ない。


 腹を決めて途中で寄るサービスエリアのおすすめグルメをネットで探し始めた沙智は、その種類の豊富さに目を輝かせた。


「……石田さんてさ」


 隣でハンドルを握る同僚が半ば呆れたように口を開く。


「開き直りっていうか、切り替えが早いよね」


 「さっきまで泣いてたのに」とつぶやいた彼に「そう?」とさっぱり返す。


 そんなこと言いながらいつまでも泣いていたらそれはそれで面倒くさがるくせに。


 沙智だって最初からこんなに切り替えが早かったわけではない。ただ経験して学んだけだ。自分が泣いたところで何が変わるわけでもないということを。


 大人になるというのは世知辛い。


「やっぱりラーメンがいいかも。最近食べてないし。とんこつだって。菅原くんは何が食べたい?」


「バーガーかラーメンか……。あー聞いてたらますます腹減ってきた」


 彼が大きく口を開けて飢えを嘆きハンドルを切る。車が最初の目的地のサービスエリアへと滑り込んだ。


「時間決めて車に集合にする?」


 パーキングで車から降りて伸びをしてから彼を振り返る。彼がその言葉に目を丸くした。


「なんで? 一緒に来てるんだから一緒に回ろうよ」


 お互いの興味も見たいものも違うかもしれないのに?


 首をかしげていると彼が沙智の手を取った。


「今日は一泊旅行に来た長年付き合った仲良しカップルって設定で行こうよ。だから明日家に帰るまでは全行程を二人で回ります」


 したり顔でそう言った彼に思わず吹き出す。


「その設定必要?」


「カップルでもない男女が二人きりで温泉旅行なんて怪しすぎるだろ。女将や中居の噂の種になんてなりたくないね」


 そんなのわざわざ言わなければ勘繰られることもないのでは?


 そう思いながら、歩き出した彼の手を沙智は少しだけ強く握り返した。

 

 とりあえず腹ごしらえのために飲食店を回る。中途半端な時間だからかネットで人気店だと書かれていたお店もそれなりにすいている。


 結局二人ともフードコートのラーメン屋に決め、注文してから席に着いた。


「そういえば泊まるとこ決めて予約しないと」


 彼が言ってスマホを取り出したのを見て沙智もスマホを取り出す。


「当日に予約できるとこあるかな? 週末だし」


 予約が取れなければ温泉は日帰りにして明日は予定通りに内覧に行けるのだけど。


 考えていると彼がスマホを耳に当てながら沙智に笑いかけた。


「この際、宿の質には文句言わないってことでよろしく」


 でも元彼と行った宿はさすがに避けたいな。心の中でつぶやきながら沙智も検索を始める。


 沙智が宿を検索して彼が電話をかける、という流れができてから五件目。


 電話口の相手と話しながら彼がオッケーサインを出したのを見て、沙智はスマホのウェブブラウザを閉じた。


-----


 宿の裏にある駐車場に車を停めて宿の建物を見上げる。直前に予約したが日本家屋風の大きな宿はなかなか悪くない雰囲気だ。


「あれ? ここ……」


 同じく車から降りたって沙智の横に来た彼が同じように建物を見上げ首をひねる。


「どうしたの?」


 尋ねると、しかし彼は首を振った。


「何でもない。行こう」


 そうして自然に沙智の手を取る彼は本当に長年付き合った彼氏のようだ。そのことに複雑な思いを抱きながら手を引かれるままに歩き出す。


「えーと、沙智?」


 不意に呼びかけられて「へい?」と間抜けな返事を返す。


「名前呼びじゃないとカップル感出ないだろ? 俺の下の名前知ってる?」


 尋ねられて頭をフル回転させ記憶を探る。確かこの前バーで禅ちゃんが呼んでいた……。


「哲?」


 自信なくそう呼ぶと彼は満面の笑みを見せて沙智の頭を撫でる。


「正解。さすが」


 これは彼女扱いではなく子ども扱いではなかろうか。


 腑に落ちないまま宿の正面玄関をくぐると二人に気づいた年配の女性従業員が愛想笑いを浮かべ「いらっしゃいませ」と頭を下げる。


「先ほど予約した菅原ですが」


 こちらも負けじと営業スマイルの哲がその従業員に対応する。


「はい。うかがっております。宿帳にご記入をお願いできますか?」


 従業員に促され、年季の入った革張りの宿帳に哲が記帳を始める。


「当宿のご利用は初めてですか?」


 彼が記帳をしている間のわかりやすい時間つぶしに従業員にそう尋ねられ、「はい」と答えると横から哲が「僕は以前に一度」と答えたのに沙智は驚いた。


「あら、そうでしたか。再度のご利用ありがとうございます」


 女性従業員の顔が一段明るくなり哲にまた丁寧に頭を下げる。


「ええ。何年か前に友人と来たんですが、その時がとても良かったので彼女を連れてきたいなと突然思いつきまして。当日に空きがあってラッキーでした」


 にこやかに言葉を吐き出す哲に、よくもまあこんなにも口が回ると舌を巻く。営業職の真骨頂ここに極まれりだ。


「まあまあそれは。気に入っていただけて何よりです。今回は彼女さんもぜひ満喫していってくださいね」


 記帳を終えた哲から宿帳を受け取り従業員が上機嫌に言うのに「はい」と愛想よく返しながら、彼女から見えないように哲の服の裾を強めに引っ張る。


 彼は邪気のない笑顔で振り向くと裾を引っ張る沙智の手を取った。


「お布団は特にご希望がなければお夕飯後に敷かせていただいております。だいたい八時ごろになります」


 従業員に部屋に案内されて宿の説明を受けている時、その言葉で沙智ははたと気付く。


 あれ、そういえば寝る時ってどうなるの?


 思わず部屋をぐるりと見回す。


 真ん中に座卓の置かれたそこまで広くないバスとトイレ付きの客間。障子で仕切られた広縁には二脚の椅子とコーヒーテーブル。


 二人の寝室となるこの部屋には仕切りになるようなものは何もない。


「それではごゆっくりお寛ぎください」


 退室する従業員を反射的に笑顔で見送って、なんとなく部屋に落ちた沈黙に沙智はそわそわと正座した足の指先を動かした。


「本当に来たことあるの?」


 座卓の上にある宿の案内に目を通し始めた哲に尋ねると彼は「んー?」と気の無い返事。


「さっき言ってたじゃん。フロントで」


 もし全てが嘘だとしたらあんなにするすると嘘をつくこの人が怖くなってしまうところだ。


「うん。大学の時にね。宿の名前とか覚えてなかったからこの宿の外観見るまですっかり忘れてた」


 すっかり忘れてたと言う割にはあの従業員には随分と上手いこと言っていた。


「そうなんだ。すごい偶然」


 呆れとも関心ともつかない感情でため息をつく。

 

 それにしてもこの宿は沙智が適当に検索したところだ。日本でも有数の温泉街。


 宿も数だけで言えば相当あるこの街で意図せず哲が昔泊まった宿を探り当ててしまうとはなんたる偶然。


 なんとも言えない感慨に耽っていると哲が宿の案内を座卓に戻した。


「夕飯まで時間あるし、先に温泉に入ってこようかな。沙智はどうする?」


 哲の一存で部屋で取ることになった食事は六時半。時計を見るとまだ夕食の時間までには一時間以上ある。


「そうね。私もそうしようかな」


 せっかくの温泉旅館。最大限に楽しむにはやはり温泉だ。


 用意をしようと鞄を引き寄せると立ち上がった哲が一歩沙智に近づいて顔を覗き込んで来た。


「家族露天風呂も予約できるって。せっかくだし一緒に入る?」


 悪戯っぽく笑う哲に「ばか」と一言睨み付けると彼はますます楽しそうに笑った。

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