第19話 眼福は糾える縄の如し
近くの海で捕れた新鮮な魚介と春から夏にかけて旬になる採れたての山菜料理。
山に囲まれ海にもほど近いこの地域は温泉だけでなく食べ物も素晴らしい。
失った恋の悲しみを忘れるためにやけ食いする人の気持ちが今の沙智にはよくわかる。
美味しいものでお腹が満たされると一時的ではあるが嫌なことが忘れられる。
「このホタテ甘くてすごいうまいよ」
「ほんとだ。おいしい。お刺身久しぶりに食べた」
料理の説明をしてくれた従業員が退室してから二人で囲む食卓。
すっかり身に馴染んでしまった二人での食事風景だが、二人とも浴衣姿というだけで少し雰囲気が違う。
風呂上がりで浴衣姿の哲は妙な色気を放っていて、風呂上り直後はまともに直視できなかった。沙智でさえこうなのだから、もし会社の後輩がいたら大騒ぎだっただろう。
対する哲はというと、浴衣姿の沙智の姿を見ても顔色一つ変えなかった。
わかってたし。別に期待してたわけでもないし。興味がないのは当たり前だし。
しかし頭では理解していたつもりなのに哲があそこまで無反応なことにいささか傷つき、自分が傷ついたことに驚く。
「刺身と言えばさ、うちの近くに美味い寿司屋があるんだ。そこの海鮮丼が本当に絶品で。今度行こうよ」
「海鮮丼。いいね。行こう行こう」
自然とそんな口約束をしてから、その約束が果たされる日は来るのだろうかと頭の隅で考える。
すると突然部屋の中に無機質なバイブ音が響いた。二人して即座にそれぞれのスマホに手を伸ばす。自分のスマホになんの着信もないのを見て沙智は哲を振り返った。
哲はスマホを凝視したまま無表情にフリーズしている。
「哲?」
不審に思い呼びかけると彼はスマホの電源を落とした。
「出なくていいの?」
そのままスマホを鞄にしまった彼に問いかける。
「うん。たぶん仕事の話だし。週明けでいいだろ」
そう言ってから彼が出し抜けに「あ」とつぶやいた。
「違うな。今のは彼氏としては駄目な答えだ」
なにが?
沙智が首をひねると、一瞬何かを考えこんだ哲はぱっと顔を上げて沙智をまっすぐ見た。
「せっかくの沙智との時間を邪魔されたくないんだ。仕事のことなんて忘れて一分一秒でも二人きりの時間を楽しみたいから」
キラキラな笑顔でそう断言した哲に今度は沙智がフリーズする。
「どう? 今の。彼氏として」
すぐに無邪気にそう尋ねてきた哲に沙智は眉を八の字にした。
「なんか……ホストと旅行に来た気分になった」
「あれ? 駄目? 難しいな、彼氏演じるのって」
そのまま難しい顔をして考え込んだ彼に、いつも通りでいいのに、と呆れ気味で笑いながらなぜか少し熱くなった耳を軽く引っ張った。
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夕食を食べ終わると女性従業員が二人現れ手早く布団を敷き始めた。その間、邪魔にならないよう広縁の椅子に座って手持ち無沙汰に待つ。
若い方の従業員が布団を敷きながら哲をチラチラと盗み見ているのに気づき、沙智は苦笑した。
不本意ながらその気持ちはわかってしまう。
「ああいうのって朧月って言うんだっけ?」
当の本人はそのことを自覚してるのかいないのか、広縁に張られたガラス越しの空に浮かぶ月を指さして沙智を振り返る。
沙智もつられてガラスの外の塀の向こう、薄い雲にところどころ覆われ輪郭がぼんやりとした月を見上げた。
「えーっと、どうだったかな? 朧月って霧で霞む月のことじゃなかったかな?」
「じゃあ、ああいう月って何て言うの?」
「さあ?」
お互いに顔を見合わせてしばらく黙り込む。
なんて内容のない会話。
そう思ったらなんだか笑えて、沙智は薄く口の端をあげた。
「なに? なんかおかしい?」
不思議そうに尋ねてくる彼に首を振る。首を振りながら、そう言えば前の彼氏はこういう意味のない会話を嫌がる人だったと思い出す。
「お布団ご用意できましたので。それでは失礼いたしますね。ごゆっくりどうぞ」
年配の従業員に声をかけられ二人で「ありがとうございました」と頭を下げる。下げたところで部屋の真ん中に敷かれた二組の布団がぴったりくっついていることに気づき、沙智はギョッとした。
とっさに退室していく従業員に目を走らせると、最後に哲の方をまたチラリと見た若い従業員が沙智の視線に気づいて慌てたように目を伏せた。
こんな変な気遣いを見せる旅館があるなんて。
呆然としていると哲が布団の真ん中にどかりと倒れこむ。
「なんか長い一日だったなー」
そのまま二組の布団の真ん中でゴロゴロする彼に「布団離すからどいて」とも言えず気まずく立ち尽くしていると、哲が沙智を見上げた。
「ごめん。沙智の方が疲れてるのにね」
そうして一方の布団へ寄ると、哲は隣の布団をポンポンと叩いた。
「はい。どうぞ?」
ニコニコしながら沙智を促す彼の顔に全く布団の距離など気にした様子はない。
布団を離したい、なんて言ったら沙智がやたらと彼を意識しているかのようだ。向こうは意識していないからこそあの態度なのだろう。しかし同性の友達だとしてもこの距離は近いと思うのだが。相手が異性愛者の男友達だったらきっと迷いなく自分でさっさと布団を離すのに。いや、そもそも異性愛者の男友達と同じ部屋に泊まるシチュエーションなんてないか。
「ちょっと……近くない?」
色々考えた末、ようやくそう言った沙智に哲は「そう?」と首を傾げた。
二組の布団を少しだけ離してまだ早い時間だが二人揃って布団の中に潜り込む。
電気を消すと、障子を閉め忘れたせいでガラス越しに差し込む月の光に部屋がうっすらと照らし出された。天井の木目がいやにはっきりと見える。
そういえば元彼と旅行に来た時も寝るときにこんな風に天井の木目が気になったな。
ぼんやりと考えながら木目の模様を目でなぞる。元彼はどこでもすぐに寝付ける人だった。こうやって沙智が木目を眺めているうちに横から大きなイビキが聞こえて来て閉口したのを覚えている。
そんなことを考えていると「沙智、寝た?」と隣から遠慮がちな声。
「まだ。なに?」
顔を動かさずに答えると、彼が体ごとこちらを向く気配。
「もしかして元彼のこと考えてる?」
尋ねられて黙り込むと哲が「やっぱり」とつぶやいた。
「今は俺が彼氏なんだから俺のこと考えてよ」
ちょっと拗ねたような彼の声におかしくなって、ふふふ、と笑う。
「例えば哲のどんなこと考えればいいのかな?」
子供をあやすようにそう尋ねてみる。
「……俺さ、あの夜、あの駅に行って良かったと思ってるんだ」
しばらくの沈黙の後に唐突に始まった話になんのことかわからず哲の方に顔を向ける。
月明かりに青く照らされた哲の目がまっすぐに沙智を射抜く。
「あの夜、沙智に会えて良かった」
沙智があの家を出た夜。元彼と別れる羽目になった最悪な夜。
哲に会えて救われたのはむしろ沙智の方だ。あの時は一週間もしないうちに二人で温泉旅行に出かけるなんて想像もしなかったけれど。
「沙智は? 会えたのが俺で良かったと思ってくれてる?」
尋ねられ、静かにうなずく。
会えたのが哲で良かった。哲じゃなかったら、きっとこの数日間はもっと辛いものになっていた。
哲の目がふと優しい色を帯びる。
「俺ね、実はちょっと運命感じてるんだ」
そう言った哲は、今度は沙智から目をそらして先ほどの沙智と同じように天井を見上げた。
「あのバーのオープニングパーティで絶対に知られたくなかった俺の秘密を偶然知られて、その何年か後に俺がふらっと立ち寄った駅で偶然出会って、その後来た温泉旅行で俺が以前泊まった旅館を偶然探し当てて……。全部沙智だよ。運命的じゃない?」
確かにこんなに偶然が続けば運命を感じるものなのかもしれない。
「うん。……そうかも」
その運命は決してロマンチックなものではないけれど。
「沙智で良かった」
まるで愛しい人の名を呼ぶように自分の名を呼ぶ隣の男に沙智は目を細める。
私も、哲で良かったよ。
声には出さずにそうつぶやいて、沙智はまた天井に目を戻した。
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