第20話 昨日は今日のお菓子
旅館の従業員に見送られ、チェックアウト時間よりも早めに二人で正面玄関から宿を後にする。
「ばれないで済んだかな?」
本当はカップルじゃないってこと。
わざとらしく哲に聞くと、彼は沙智を振り返りながら笑った。
「大丈夫だろ。これで疑うんだったらその人が人間不信ってだけじゃない?」
確かにチェックアウトの時もずっと手を繋いでいた二人は、傍から見ればただのバカップルに見えただろう。
「そうかも」
つられて笑うと彼が沙智の手を握る力を少し強める。
「昼までなら車置いといてもいいって言ってたし、せっかくだからお土産も見ていこうよ」
一旦車に荷物を置いてからそう言った彼に手を引かれ、お土産屋の並ぶ商店街へと足を延ばす。
途中で人力車の横を通り過ぎ、沙智は無意識に「あ」とつぶやいた。
「乗りたい?」
沙智の視線の先に目をやった哲が尋ねてくる。
「ううん。いい。前来たときに乗りたいって言って、元彼に恥ずかしいから嫌だって言われたの思い出しただけ」
今考えるとあの時は浮かれすぎていたのだろう。元彼の恥ずかしいという気持ちも今はわかる。
すると哲が人力車に向かって一歩踏み出した。
「乗ろうよ。せっかくだし」
「え、いいよ。ほんとに」
ぐいぐい引っ張られる手に抵抗してその場に踏ん張る。
「前来たときよりいい思い出作って、前のことなんて忘れようって言ったじゃん」
そんなに真剣なまなざしで説得されると心が揺れる。
沙智が哲の勢いに押されてうなずきかけたところで、男の子が二人を通り過ぎて人力車の前に躍り出た。
「パパー! これ乗りたい!」
人力車の前で声を張り上げた男の子に、父親らしき若い男性が慌てて追いつく。
「まー君、順番だよ。お兄さんとお姉さんが先でしょ」
男性は沙智たちを振り返ると軽く会釈して男の子を人力車から引きはがそうとした。
「大丈夫です。私たちはいいですのでどうぞ」
とっさに男性に言って沙智は哲の手を引く。哲が沙智に何かを訴えかけるように目線を飛ばした。
「いいよ。別に今は乗りたいわけじゃないし。行こう。お土産見る時間がなくなっちゃう」
そう言って二人で歩き出すと、背後から男の子の「ありがとうございます!」という元気な声が聞こえた。
「どういたしまして」
振り返って二人に会釈すると、男の子が大きく手を振って答える。
「可愛い」
その無邪気さに沙智が顔をほころばしていると哲が肩をすくめた。
「子供って苦手なんだよなー」
小声でそう言った彼に、意外だ、と眉を跳ね上げる。
「兄貴のとこの甥っ子もいまだにどう接していいかわかんない」
「甥っ子いるんだ? いくつ?」
「今年で四歳かな? 会うと何だかんだひっついてくるんだけどさ、もうどうしていいやら」
そしてまた肩をすくめた哲に、沙智は吹き出した。
対人を得意とする営業部エースの彼が子供は苦手だなんて、意外な弱点を知ってしまった。
お土産屋が並ぶ商店街にまでたどり着くと一軒目からぶらぶら冷やかす。
「会社にお土産買ってく?」
尋ねられ、一瞬だけ考えて沙智は首を振った。
「今までもあんまりそういうことしてないし」
誰と行ったか勘繰られるのも面倒だし、彼氏と別れたことが噂になっている今、傷心旅行してきたと思われるのも癪だ。実際その通りなのだけれど。
「そっか。俺は買ってこうかな。彼女と行ってきましたーって」
冗談っぽく言った彼が手近なお菓子を手に取る。
その様子を想像して会社の女性陣がショックを受ける様が目に浮かんだ。
「そういうこと、したことなかったからな。みんなどういう反応するかな」
阿鼻叫喚になるからやめたほうがいい。
心の中で思いつつも、楽しそうにお菓子を見比べる哲には何も言えない。もう会社にお土産を持っていく気満々のようだ。
きっと今までは余計な詮索をさせないためにパートナーの存在をなるべく匂わさないようにしていたのだろう。
ただ好きな人と一緒にいたいだけなのに、自分とその相手の平穏を守るためにそんなに大変な思いをしなければならない。それはどんな気持ちなのだろうか。
「そういえば哲が前にここの温泉に来たのって元パートナーと?」
ふと口をついて出た疑問に彼が一瞬動きを止めたのを見て、しまったと手で口を覆う。純粋な疑問だったのだが無神経だったかもしれない。
「ごめん、忘れて……」
誤魔化すように目の前のお菓子に手を伸ばす。しかし彼はふっと笑みを浮かべた。
「いいよ、そんな気つかわなくて。俺ばっかり沙智の元彼のこと聞いてたし、俺のことも遠慮せずどんどん聞いてくれて構わないから」
どうせ沙智には全部知られてるし、と付け足した彼が沙智の手を取って店を出る。ゆっくり通りを歩きながら、彼は言葉を選ぶように口を開いた。
「前来たときは学生の頃で……そう。沙智の言う通り前のパートナーと。でもまだ付き合ってなかった。ただの男友達としての旅行だったんだ」
昨夜、彼がなんとなく感傷的だったのは、きっと沙智だけでなく彼自身もパートナーを思い出していたからなのだ。
私たちはお互いを見ているようで見ていない。
今さらそんなことを思い知らされた気分で心中で苦く笑う。
「あいつがその当時の彼女と来る予定だったのをドタキャンされて、当日に無理やり俺が付き合わされたんだ」
彼女?
驚いて哲の顔を見ると、その視線の意味を知ってか知らずか彼は薄く微笑んだ。
「突然、俺の家の前に現れてほとんど拉致状態だったんだけどな」
「そうなんだ……」
男性も女性も大丈夫な人だったのかな。それとも哲が口説き落としたの? どっちだろう。
なぜか動揺しながら唾を飲み込む。
「あの時はあいつと付き合うなんてこれっぽっちも思ってなかったんだけどなあ……」
哲の囁くようなその言葉に、沙智はまた「そうなんだ」とつぶやいた。
好きになる人とならない人。その線引きは一体どこなのだろう。
私はどうだったっけ?
元彼と付き合う前を思い出そうとしたけれど、記憶がぼんやりしていて上手く思い出せない。
私はあの人のどこを、いつ、どんな風に好きになったんだっけ?
「あの店面白そう! 行ってみよう」
霞みがかった記憶を辿ろうとしたところで、隣にいた哲の興奮した声に沙智の記憶の旅は遮られた。
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