第21話 筆は投げられた

「菅原くん、これ」


 適当なところで買い物を切り上げ、昼前に車に乗り込んでからも何だかんだと寄り道をして、マンションに帰り着いたのは結局夕飯時。


 それならもう、とことんまで行こうと昨夜話に出た近くの美味い寿司屋で海鮮丼を食べ、戻ってきたらとっぷり日も暮れていた。


 楽な格好に着替えてからリビングに来た沙智は、テーブルに一封の封筒を置いた。同じく部屋着に着替えた彼が上から封筒を覗き込んで不思議そうな顔をしている。


「ここ数日の宿代とか食費とか。遅くなっちゃってごめんね」


「ああ、気つかわなくていいのに。……でもま、そういうことなら」


 そう言って素直に封筒を受け取った彼を見て沙智はほっと胸をなでおろした。


 今回の温泉旅行も彼は、自分が勝手に連れて行ったのだから全部出す、と言い張って大変だった。


 さすがに全額払わせるわけにもいかないと、なんとか宿代だけは折半にできたが、彼の説得には骨が折れた。


 沙智のあまりのしつこさに彼に「その粘り強さは営業に向いてる」とまで言わしめたほどだ。


 こういうところで素直に「ありがとう」と厚意に甘えられないのが男性から見たら可愛げがなく見えるのだろう。わかってはいるが性分なので仕方ない。


「それでね、来週末には出ていくようにするから、それまでまた一週間お世話になってもいいかな?」


 本当は心苦しいのだが背に腹は代えられない。


 すると目の前の彼は少し考えるような顔をした。


「そのことでちょっと提案があるんだけど」


 座るように促され、彼と向き合って椅子に腰かける。


「石田さんさ、このままここに住む気ない?」


「ここに……?」


 目を何度もしばたたかせて彼の言った言葉を理解しようと試みる。


 このままここで、この人と。


「そう。俺たちって結構相性いいと思うし」


「相性……」


 一瞬考え、それも悪くないという思いが浮かぶ。


「正直言うとさ、ここのローンも大変なんだよね。二人で住んでた時は相手に家賃とか払ってもらってたんだけど、急に出ていったから支出がいきなり増えて。食費なんかも一人暮らしだとやっぱり調節が難しいし」


 なるほど。それはそうだ。


「かと言って今さらルームメイト? 探すのもあれだしさ。その点、石田さんなら何も隠す必要なくて俺としては楽だし」


 確かに沙智にしても今から新居を方々探し回り、内見を重ねて高い引越し資金を払うよりはこのままここにいる方が物理的、金銭的、精神的によっぽど楽だ。


 何より彼にはもう散々かっこ悪いところも無様な姿も見せている。今さら隠すことがないのは沙智も同じだ。


「そう、ね……」


 ただ問題があるとすれば……。


 少しだけ考え込むと彼が沙智の顔色をうかがうように首を傾げた。


「どうかな?」


 その様子がご主人からの許しを待つ犬みたいで思わず微笑む。


 この彼と生活を共にして問題があるとすれば、沙智に今後新たな恋愛のチャンスがあるかということだ。


 もちろん今すぐそんな気分にはなれないけれど、このままおひとり様を貫き通すつもりもない。いつかは結婚だってしたい。


 いつか、と言ったところで年齢的にもあまりゆっくりはしていられない。いつどこで出会いがあるかもわからない。


 でももしも、この先気になる人ができたとして、他の男と住んでいる女だと知られれば始まるものも始まらないのではないか。


 あるいは、私が彼のことを……。


 考えかけ、そこで思考をストップする。これ以上考えてはいけない気がして、ちらりと正面の彼を見る。彼は何かを察したかのように言葉を加えた。


「もちろん、石田さんに好きな人とか彼氏ができたらその時はまた話し合おう。俺だって石田さんの将来を邪魔したいわけじゃないから」


 言われて目を見開く。


 ああ、そっか。この人……。


 彼を見つめ、彼の言葉を頭の中で反芻する。


 この人、私が自分のことを好きになるかもなんて、これっぽっちも考えてないんだ。


 膝の上においた拳に自然と力が入る。


「うん。わかった。ありがとう。じゃあよろしくお願いします」


 ずきりとどこかが痛んだ気がして、それを振り払うように沙智は彼に一礼した。


 うん。大丈夫。


 今まで通りの関係でいればいいだけ。


 ただそれだけ。


「良かった。こっちこそこれからもよろしく、沙智」


 彼の安心したような笑顔にぎこちない笑顔で返して、沙智は彼から目をそらす。


「あ、そういえば渡したいものがあったんだった」


 そう言って席を立った彼が部屋から持って来たものに視線をやり、沙智は眉根を寄せた。


「なに、それ?」


「ボールペン」


 それは見ればわかる。


 沙智が聞きたいのはそのボールペンのトップについた、決して可愛いとは言えない造形のキャラクターのことだ。


「なんかあの温泉街のあたりに伝わる妖怪だったか小人だったかをモチーフにしてるんだって。お土産屋の隅で埃かぶってた」


 それをなぜ私に……。


 赤とも紫ともつかない色のボールペンを手渡されて間近で見てみるが、見れば見るほど可愛くない。


「色違いのお揃いでほら、俺も」


 今度は青とも緑ともつかない微妙な色合いのボールペンを見せられ「はあ」と何とも言えない返事を返す。


「せっかくだし二人で旅行に行った記念に。あとは同居記念?」


 部屋のコーディネートや私服のセンスは良いのに……。


 照れ臭そうに笑う彼になんだか残念な気持ちになる。


「ありがとう。えっと……、奇抜なデザインだね」


 慎重に言葉を選んでひきつりそうになる口角を無理矢理に押し上げると彼が声を上げて笑った。


「いや、さ。こんな変なのなら誰かと被る心配もないだろ?」


 あ、変なものって意識はあったんだ。良かった。


 ずれたところで安心していると、彼が今度はふわりと優しく笑ってみせた。


「こんなボールペンをお揃いで持ってるのなんてきっと日本中で俺と沙智だけだよ。なんか特別っぽいだろ?」


 言われてもう一度彼と自分のボールペンを見比べる。


 トップに付いたキャラクターのせいで全体的に歪な形のこのボールペンは、二本揃うとまるで歪な関係の自分たちそのものだ。


「そうだね。きっと私たちだけだね」


 ふっと肩の力が抜ける思いがして息を吐く。


 ぎゅっと手の中のボールペンを握ると、でこぼこしたその造形が沙智の手に突き刺さった。

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