第21話 寝耳に麦酒
駅から徒歩五分。ネオンが輝きを放つ飲屋街から一本入った狭い路地で控え目に看板を掲げるバー。
普段は落ち着いた雰囲気だが、ワールドカップやWBCなどがあると途端にスポーツバーにも変化するこのお店は沙智の唯一の行きつけだ。
重厚な扉を開くと正面のカウンター席の向こうから髭面で筋肉質なマスターが優しげな微笑みで迎えてくれる。
「沙智ちゃん、いらっしゃい。最近頻繁ね。嬉しいわ」
見た目に全くそぐわぬ口調で話すマスターは、時に兄のように、時に姉のように接し叱咤激励してくれる存在で、そのストレートな物言いが常連客には人気だ。
「禅ちゃーん。また来ちゃったー」
「一人? 付き合いでもないのに月曜の夜から来るなんて、呑んだくれ一歩手前ね」
茶目っ気たっぷりにウィンクしながら言ったマスターにペロリと舌を出して応じる。
「いつも通りとりあえず生?」
聞かれて「お願い」と答えながらカウンター席に陣取る。さっと出されたグラスの中身をすかさず一口含み一息つくと、タイミングを見計らったかのようにマスターが沙智に顔を寄せた。
「ねえ、この前のことずっと聞きたかったのよ。どういうことなの?」
この前のこと?
首をひねるとマスターは焦れたようにさらに沙智に顔を寄せる。
「哲ちゃんのことよ。この前迎えに来たじゃない。びっくりしちゃったわ。まだ哲ちゃんのとこにいるの?」
ああ、そういえば。
思い出して気まずく首をすくめる。
「まだ、というか……。成り行きで一緒に住むことになったというか……」
昨夜の話し合いで半ばやけくそ気味に同居を承諾してしまったが、合鍵を受け取った時点で早速後悔し始めた沙智は、今も現実逃避にこのバーまで来ている。
このマスターと哲が知り合いだということをすっかり忘れて来てしまったあたり、同居の決定に沙智はまだかなり動揺しているのだ。
「まあ! 同棲? 急展開!」
「ただの同居だよ、同居! お互いの利害が一致しただけ!」
目を輝かせたマスターに手を振ると、マスターは肩をすくめる。
「あら。わかんないわよ。一緒に住んでたら情もわくし、ひょっとしたらひょっとするかもじゃない」
ひょっとしたら……。
「それは、ないでしょ」
哲の事情についてはマスターも知っているはずだ。沙智が苦く微笑むと、マスターはしたり顔で小首をかしげた。
「もしかして、哲ちゃんが前付き合ってたのが男だってこと気にしてる?」
気にしているわけではない。ただそれは純然たる事実で、覆りようのない真実だ。
しかしマスターはどこか悟った表情で沙智に微笑みかけた。
「あのね、人なんてわかんないものよ。ゲイだって言いながら女性と結婚して幸せな結婚生活送ってる人もいるし、逆にノンケだったのにいつの間にか同性と付き合ってる人もいる。いろんなパターンがあるのよ。だから哲ちゃんと沙智ちゃんだって、絶対にないなんて言い切れないと思うの」
人なんてわかならい。数日前にも同じような言葉を聞いた気がする。
そうかもしれないな。
納得しかけてハッとする。
「いや、別に私は哲と恋愛したいわけじゃないから!」
慌てて否定してまたビールグラスにかぶりつくと、マスターはくすくす笑って沙智から一歩引いた。
「だいたいさ、ゲイに恋するのは不毛だって言ったのは禅ちゃんじゃん」
誤魔化すように唇を突き出すと、マスターは「あら、そうだったかしら?」ととぼけた声を出した。
「もー。禅ちゃんてば適当なんだから」
呆れたように半眼で睨む。
「だってあの時は相手が哲ちゃんだって知らなかったんだもの。あたしね、哲ちゃんには幸せになって欲しいのよ。やっとあんなロクデナシと別れられたんだから。あんな良い子、絶対に幸せになるべきよ」
ロクデナシ?
マスターは哲の元彼について詳しいのだろうか。
思っていると、どこか遠い目をしていたマスターの視線が沙智に移った。
「哲ちゃんを幸せにする役目、沙智ちゃんならできるんじゃないかなあって思ってるんだけど」
視線を向けられてどきりとする。なんだかまるで姑に値踏みされている気分だ。
「だから、私にその気はないってば。幸せになって欲しいなら禅ちゃんが幸せにしてあげれば?」
落ち着きなく視線を泳がせて、紙製のコースターの端を折り曲げる。
「そうしてあげたいのは山々なんだけど、あたしは自分の奥さんと子供で手一杯だから」
さらっとそう言ったマスターに沙智は勢いよく振り向いた。
「え! 禅ちゃん結婚してるの?」
思いがけず大声で聞いてしまい、口元を手で押さえて周囲を見回す。しかし周りは沙智たちを意に介さずそれぞれ談笑している。
「あら、知らなかった? 常連さんはほとんど知ってるから沙智ちゃんも知ってるもんだと思ってたんだけど」
顎に手を当てて腰をくねらせたマスターに沙智はあんぐりと口を大きく開けた。
「知らなかった。……ていうか、禅ちゃんのこと勝手にゲイだと思ってた」
だって哲のことを見たときのあのテンションの上がり具合はストレートの男性ではなかなか見られない。
正直な沙智の言葉にマスターは苦笑した。
「この喋り方だからね、そう思われることは多いわ。もともと男でも女でも綺麗な子を見るのは好きだったし、若い頃からこの通り女性的な感覚の人間だったから自分の性的指向がわかんなくなってた時期もあったのよね」
カウンターに手をついたマスターが沙智と視線の高さを合わせる。
「昔からあんまり好きな人もできなかったのよ。それで試しに告白してきた男の子や女の子とお付き合いもしてみたんだけど、全くその気になれなくて結局上手くいかなくて。そうこうしてるうちに今の奥さんに出会ったの。それで色々あって、あたしには絶対この人だって思ったのよ」
おかげで今は幸せよ、と笑ったマスターが眩しく見えて目を細める。
「そうなんだ」
羨ましいな。
素直にそう思って手元のグラスを傾ける。黄金色が明かりに照らされてシュワシュワと弾ける。
「だからね、あたし自身がこんなだから、沙智ちゃんと哲ちゃんもわかんないわよ」
そして戻ってきたその話題に呆れながらマスターを見る。マスターはどこまで本気なのか、沙智を優しい視線で搦めとるように見つめた。
「ごめん、今その話入って来ないわ。禅ちゃんが結婚してたってことがなんでかすごいショックで」
苦笑して言うとマスターが眉を跳ね上げた。
「あら、沙智ちゃんてば実はあたしに惚れてた? ごめんなさいね。あたしは奥さんにゾッコンなのよ」
そうして笑ったマスターに目を丸くしていた沙智もつられて笑い、手元のグラスの中身を一気に飲み干した。
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