第23話 リップを変えてかかる
「沙智さん。明後日、合コン行きませんか?」
隣に座る後輩がアーモンド形の目を大きく見開いて聞いてきたのは、沙智がお昼を摂ろうとコンビニ袋の入った鞄に手を伸ばした時だった。
小首をかしげて上目遣いの彼女はさながら小動物のようだ。
「合コンって……私が?」
今まで彼女から来たことのないお誘いに戸惑って目をぱちくりさせていると、彼女は「はい」と可愛らしく笑った。
「でも、なんで私を……」
思わず周囲を見回しながら尋ねてみるが、お昼時で人も少なく気の緩んだ部内では沙智たちに注意を払っている者は一人もいない。
沙智と同じように一瞬周囲を見回した彼女は少しだけ声を落として顔を寄せた。
「今はまだフリーですよね? 新しい出会いのためにもちょうどいいかなと思って」
恐らくは失恋したばかりの沙智に対する彼女なりの気遣いなのだろう。明るく笑う彼女はしかし、どことなく遠慮がちにも見える。
正直なところ沙智は合コンが苦手だ。
大学生の時に何回か参加した経験はあるが、もともと人付き合いに苦手意識のある沙智にはほぼ初対面の異性と飲み会をするなんて苦行でしかない。
ノリの軽さにもついていけず、過去の合コンでは嫌味を言われたこともあるのでできれば避けて通りたいイベントだ。
それに何より新たな恋愛に乗り出すのはまだ億劫だ。
「でも……まだ別れたばっかりだし」
言い訳がましくもごもごしていると、目の前の彼女がキョトンとした顔で首をひねった。
「別れたばっかりだから……? 元彼さんに遠慮ですか?」
「そういうわけじゃ……」
浮気した元彼に遠慮なんてする気などない。が、別れたばかりですぐに次に乗り換える女性をよく思わない人間がいるのも事実だ。どちらかと言えば沙智自身もそういうタイプだ。
しかし恋愛観が合わないだろう彼女にそんなことを告げるのも気が引けて、はっきりせずにいると彼女は何かを悟ったように椅子に座りなおした。
「まあ別れたばっかりだと、なかなかそんな気にならないですよね。でもいつかは違う人と付き合うなら別に今から品定めしといても損はないですよ? 市場の下調べみたいなもんですよ」
なんだか恋愛的なのか現実的なのかわからない考え方だ。
「それに今はその気がなくても、新しい人と会ってる内にその気になることもあるかもしれませんし。この合コンで絶対に彼氏が見つかるって決まったわけでもないんですよ? だったら私のわがままに付き合って気分転換する、ぐらいの軽い気持ちで行きましょうよ」
そういうものかな? 七年も同じ彼氏と付き合ってたから新しい恋愛に変に身構えすぎてるのかな?
考えていると、目の前の彼女が小さな声で「あ」とつぶやいた。
「もしかしてもう気になってる人とかいい感じの人とかいますか? それなら無理にとは言いませんけど」
尋ねられて瞬時に脳裏に浮かんだ顔に慌てて頭を振る。
「ううん。じゃあせっかくのお誘いだし、行ってみようかな」
「ほんとですか? 良かった。じゃあ明後日の仕事後に一緒に出ましょう」
沙智の言葉にぱっと顔を輝かせた後輩は話に一区切りつくと財布を片手に部屋から出ていった。
その後ろ姿を横目に沙智は複雑な心境で今度こそ鞄に手を伸ばした。
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時計を見て目の前のメールを書き終え送信すると、沙智は素早くパソコンの電源を切った。
そのまま流れるように化粧ポーチを鞄から取り出して化粧室へと向かう。
約束している時間まではまだ少し余裕があるが、常に時間前行動が癖になっている。今日一日、もしものことを考えて急ぐ必要のない仕事もすべて前倒しで終わらせてしまった。
いつもは終業後に化粧室で文字通り化粧直しをすることなど稀なのだが、今日に関しては意識していなくとも気合が入る。合コンなど何年ぶりだろうか。
「沙智さん、お疲れ様です」
念入りに目の下のくまをコンシーラーで隠していると、隣の席の後輩が同じように化粧ポーチを手に化粧室へ入ってきた。
「お疲れ様」
洗面台の上に乗り出すように鏡とにらめっこしていた身を引き、反射的に取り繕った笑顔を作る。
「沙智さん、今日はぜひこの明るめのリップで行きましょう! いつもの落ち着いた色も似合ってますけど、こっちの色も沙智さんに似合うと思うんです」
彼女が化粧ポーチから取り出したリップカラーは沙智が普段は手を出さないような明るい色だ。封の開けられていない真新しいリップを沙智の手に握らせ彼女はにっこり笑った。
「これは私からのプレゼントです。安物で申し訳ないんですけど」
「そんな、お金くらい払うよ。悪いし」
戸惑いながら申し出ると、しかし彼女は頑なに首を振った。
「人のためにお化粧品選ぶの趣味なんです。私のわがままなのでこれは何も言わずに受け取ってください」
そして鼻歌交じりに鏡に向かう彼女にお礼を言って、手の中のリップを見下ろす。
試しに塗ってみると確かに沙智の普段のリップよりは明るいが、思ったより落ち着いた色で沙智の顔によくなじむ。
そしてリップの色が違うだけで表情が一段明るくなったように感じる。
素早く化粧直しを終えた後輩と連れだって化粧室を出るときに、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「やっぱりそのリップ似合いますよ。今日の服装にも合ってます。私の見立て、大正解!」
彼女につられて笑いながらふと化粧室の鏡を振り返る。
いつもよりも華やかさを意識した服装。朝、鏡の前で自分の姿を確認したとき、なんだかむず痒い気持ちになった。
出勤前に顔を合わせた哲は沙智の格好を見るなり「今日いつもと違う? かわいいね」とナチュラルに褒めてきた。
ドキリとしながら「ちょっと気分転換?」と曖昧に答えたものの、彼の視線になぜか耐えられず珍しく彼より先に家を出た。
出勤してからも周りに何か言われるのではないかとびくびく過ごしていたが、それはただの杞憂に終わった。
そうだ。他人は思っているほど私に興味はないのだ。忘れていた。
悟りの境地を開いて迎えた終業時間、それでも今から合コン会場へ向かうとなると、いくら自意識過剰と言われようと自分の姿が他人にどう映るのか気になる。
「気軽にお友達作る感じで行きましょう」
沙智をリラックスさせようと後輩が言った言葉にうなずく。
お友達作ること自体苦手なんだけど。
沙智の心の中のつぶやきなど彼女は知る由もない。
肩にかけた鞄の持ち手をぎゅっと握り、沙智は大きく深呼吸した。
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