第25話 惻隠の心は焦の端なり
和やかに進んだ合コンは、イタリアンレストランから二次会へ移行しようとしていた。
「明日早いから私はもう帰るね」
特別に居心地が悪かったわけでもないし、むしろ想像よりも落ち着いた会話と美味しい食事を楽しめたひと時だった。しかしやはり初対面の人たちと長時間を一緒に過ごすのはしんどい。
レストランを出たところで後輩に帰宅を告げると彼女は「じゃあ私も一緒に帰ります」と応じた。
「良かったの? あの幹事の人と良い雰囲気じゃなかった?」
多少引き留められながらもレストラン前でみんなと別れ、駅に二人で向かいながら隣を歩く後輩に尋ねると彼女はあっけらかんと笑った。
「確かに良い人でしたけど、別に今がっつく必要もないかなって。もうちょっと深く知るなら改めて二人で会ったほうが効率良いですし。とりあえず連絡先は交換したんで今日はもういいです」
すごく事務的というか合理的というか……。
恋愛に関して彼女は意外にドライらしい。
しかしよく考えたら彼女は彼氏がいる身だ。今日の合コンのことは彼氏は知っているのだろうかと勝手に心配になる。
「沙智さんも賢木さんとずっとお話弾んでましたよね? 連絡先交換しましたか?」
話を向けられて「うん、まあ」と曖昧に答えながら、ネイビーのスーツを脳裏に思い浮かべる。
向かいに座った者同士なんとなく会話が始まり、周りが席替えを繰り返す間も常に向かいか隣に座り二人で話し続けた。
彼も合コンは苦手だと頭をかいていたのに親近感を覚えたのは確かだが、どちらかと言えば互いの時間つぶしのために話し続けたようなものだ。
連絡先の交換も社交辞令にすぎず、後輩が期待するようなロマンチックな何かはないだろう。
それでも彼女が言っていた恋愛の市場調査という意義は果たせたように思う。苦手だなんだと敬遠していたが、合コンに来る人間の誰しもが軽いノリではないということはよくわかった。
それに新しく知り合った人と落ち着いて会話ができたのはなかなか新鮮で楽しい経験だった。自分がここ数年、ずいぶんと閉じた人間関係の中に生きていたことを思い知らされた気分だ。
「こういう感じの集まりならまた行ってみたいかも」
ぼそりとつぶやくと後輩が目じりを下げた。
「でも沙智さん、今日の合コンはかなり当たりの方ですよ。合コンはちゃんと厳選して行かないと最悪な経験をすることもあるので気を付けてくださいね」
きっと今日の合コンは彼女が沙智の代わりに厳選してくれたのだ。
「うん。今日は誘ってくれてありがとう」
心からのお礼を込めてそう告げると、彼女は照れ臭そうに笑った。
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それほど長くなかったとはいえ、新しい人との出会いは気がつかれる。クタクタになりながら開けた玄関は薄暗い。まだ哲は帰っていないようだ。
「ただいま」
玄関から真っ暗なリビングへまっすぐ向かい、電気をつけると誰もいない空間につぶやく。なんだかやたら声が反響した気がする。
鞄を置いてキッチンへ入りグラスに水を注ぐ。シンクの前でごくごくと水を口にしていると、玄関の方から物音がした。
「おかえり」
静かな足音でリビングに入ってきた影に声をかけると、ゆるゆるとこちらを見た哲が少しだけ表情を緩めた。
「ただいま……」
表情は緩んだものの、そう答えた声に力がない。ぞんざいに鞄を投げ出しスーツのまま沈み込むようにソファに座って天井を見上げた哲はそのままそこで眠ってしまいそうな体勢だ。
「今まで仕事だったの?」
未だかつて見たことがないほど疲れ切っている彼の様子に遠慮がちにそう尋ねると、彼は身じろぎもしないまま「うーん、まあ、いや……」と口ごもった。
「知り合いと飲んでたんだけど、ちょっと口論になって……。あと厄介な仕事も抱えてて色々ね」
いつになく弱気な彼が自嘲的に微笑む。
「そっか……」
知り合いと何があったのか、仕事で何を抱えているのか。沙智がつっこんで聞いていいことなのかはわからない。かと言って適当な励ましの言葉で彼を元気づけられるとも思えない。
何も言えずにしばらく立ち尽くして、沙智は手にしていたグラスを洗うとソファに深く腰掛ける彼の側へ近寄った。
「あの、さ。私に何かできることないかな?」
なんと言って良いかわからないまま彼から数歩離れた場所で沙智が口を開くと、彼が閉じていた瞼を開いて視線を沙智へと寄こす。
その視線に捉えられ、沙智はどぎまぎと手を握ったり開いたりした。
「なんていうか、元彼のこととかで哲には色々慰めてもらったし、私も哲のために何かできたら良いなって」
沙智が喋っている間にも表情を一つも変えない哲の視線に居心地が悪くなり、だんだんと沙智の中に焦りが積もる。
「変な意味じゃなくてね、ルームメイトとしてっていうか、例えば私が掃除を多めにやるとか、ご飯を哲の分も作るとか、哲が大変な間はそういう生活の中の煩わしいことが少しでも減るようにできたらなって思って。大したことじゃないんだけど……」
早口にまくし立てた後、気まずい沈黙がその場に落ちた。哲はその場で固まったように沙智を見つめ続けている。
「いい、いや、やっぱりなんでもない。ごめん忘れて」
その沈黙と視線に耐えきれず、沙智はソファの横に置きっ放しだった鞄を素早く掴んだ。
と、堪えきれなくなったように哲が吹き出しそのまま声をあげて笑い始める。
「え? な、なに?」
思いがけない彼の爆笑に戸惑って口をぽかんと開けていると、哲は目尻に溜まった涙を拭きながら「いや、悪い」とソファの上で沙智の方へ身を向けた。
「自分で言い出しといて自分で追い詰められて一人で焦ってる沙智が面白くて」
「なに、それ……」
せっかく彼のために何かできないかと一生懸命考えたというのに。にやにやと笑う彼はしばらくぶりに見た意地悪な彼だ。
それでも思ったよりも元気そうに笑う哲にホッと安心する。
「はー。笑わせてもらった。ちょっと元気出た」
ソファから身を起こし、グッと伸びをした哲はもう一度沙智の方を見るとニヤリとまた口角をあげる。
「そのリップ、いつもと違う色だね。似合ってるよ。表情が明るく見える。なんかあった?」
一息ついた哲がなんの脈絡もなく発した言葉にぎょっとする。慌ててかぶりを振って「ただの気分転換!」と言い訳すると彼は「ふーん」とつまらなそうに相槌を打った。
「よく見てるのね……」
気まずくつぶやくと彼が小首をかしげる。
「そりゃあね。沙智のことだから気になるよ」
ん? どういう意味?
思っていると、哲がその場で「さてと」と芝居がかった口調で膝を打った。
「俺のために何かしてくれるんでしょ? とりあえず紅茶が飲みたいなー。砂糖とミルクたっぷりのやつ」
意地悪な表情で甘えるようにそう言った哲に、沙智はふん、と鼻息も荒く掴んでいた鞄を離した。
「めっちゃくちゃ美味しいロイヤルミルクティー作ってあげるわよ」
そうしてもう一度キッチンへ取って返す。
「ありがとう、お姉ちゃん」
背後からの上機嫌な哲の声を聞きながら、沙智はまたふん、と鼻を鳴らした。
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