第26話 人の目

 ここ最近の疲れがたまっていたのか、土曜は昼過ぎになってようやく目が覚めた。午前中にセットしておいたはずの目覚ましは止めた記憶もないのに止まっている。


 まだ怠い体を引きずって沙智がリビングへ入ると、哲の気配はもうどこにもない。出かけているらしい。


 あんなに疲れてたのに、休みの日は家でゆっくりしないタイプなのかな。


 そういえば先週末も沙智を慰めるためとはいえ突然温泉旅行を決行した。行動力があるタイプなのだろう。


 まあ行動力云々の前に、もともと予定が入ってたのかもしれないけど。


 考え事をしながら冷蔵庫の中身で簡単にご飯を作る。


 当たり前のことだが同居が決まってからは哲とは基本的に互いの生活に干渉していない。


 同僚としても親しかったわけではないので彼の趣味など知らないし、休みの日にどこで何をしているのかなど沙智には見当もつかない。


 出来上がった朝食兼昼食を適当に皿に盛り付けてダイニングテーブルでもそもそと頬張る。


 時間があるときにこんな広いテーブルで一人で食べるご飯はなんだか味気ない。


 今日は元彼のところから引き上げてきた荷物をいい加減整理して部屋を片付けなければ。


 そこまで大荷物でないとはいえ、いつまでもダンボール箱が部屋の中に転がっているのは気持ちいいものでもない。


 あとは冷蔵庫の中身でも買い足しに行こうかな、などと考えているとテーブルに置いていたスマホが小さく音を鳴らした。


 画面をのぞき込むと通知に表示されているのは見慣れない名前。


 誰だっけ?


 一瞬考えてからネイビーのスーツが脳裏をよぎる。


「うそ」


 思わず声を出して持っていた箸を置きスマホを両手でつかむ。


『石田さん、先日お会いした賢木です。突然のご連絡失礼いたします。もしよろしければ今度また一緒にお食事などいかがでしょうか? もう少し石田さんとお話してみたいと思いました。お返事お待ちしております。』


 か、堅い……。


 文面を見て、思わず背筋が伸びる。なんだか取引先からメールを受け取った気分だ。合コンで話していた時はもう少し打ち解けた感じだったと思ったのに。


「えーと、どうしよ……」


 つぶやいてスマホを手にしたまま視線をあちこちに飛ばす。


 てっきりあの夜でもう会うこともないだろうと思っていた相手からの意外なお誘い。あまりに突然で頭が追いつかない。


 食事って、二人きりってこと? オーケーするべき? 別に悪い人じゃなかったし。かと言ってピンと来たわけでもないけど。これってデートになるのかな。会っていきなり英会話グッズとか勧められたりして。男性から食事に誘われるなんて何年振りかな。あ、でもこの前哲に誘われて海鮮丼食べに行ったわ。……あれをカウントするのはさすがに違うか。


 思考がどうでもいい方向にばかり飛んでしまい、沙智はスマホを一度放り出すと両手で頭をガシガシかいた。


『断る理由ないなら行けばいいじゃない。何もったいぶってんの?』


『行ったからって必ずお付き合いするわけじゃないですし、お友達と食事に行く感覚でいいんじゃないですか?』


『一期一会よ! 出会いはタイミングよ! 逃す手はないわ!』


 親友と後輩と、ついでにどこぞのバーの髭面が同時に耳打ちして来たような気がして沙智は放り出したスマホをまた掴みなおす。


「そうね、そうよね」


 言い聞かせるように何度も繰り返し、もう一度メッセージ画面を開く。


『賢木さん、こんにちは。先日はお世話になりました。お誘い嬉しいです。ぜひお食事ご一緒させてください。いつ頃がよろしいでしょうか?』


 相手につられてこちらもついついビジネスメールのノリになる。


 何度も自分の文面を見直してから震える指で送信ボタンを押すと、そのメッセージは何を渋ることもなくあっさりと相手へ送信された。


 あ、失敗したかも! こんなすぐに返信したらまるであっちからの連絡待ってたみたいじゃん。がっついてるように見えない?


 一人であわあわしていると、またスマホに短い着信音。


『早速のご連絡ありがとうございます。いきなりで申し訳ないのですが、明日の昼などいかがでしょうか? ご都合お聞かせください』


 明日の昼? 本当に急だ。


 しかし明日も特に予定のない沙智としては断る理由もない。


 一瞬ためらってから、もうすでに返信をしているので素直にそのまま文面を打ち込む。


『明日のお昼、ちょうど空いています。ぜひよろしくお願いいたします』


 送ってから、明日どんな服装すればいいの、と思いつく。


 デートできるような服なんてあったかな。


 元彼のところでだいぶ断捨離してきたのだ。服なんてシンプルなものしか残っていない。合コンに着ていったのだって、ダンボールの中からようやく見つけた一張羅だ。


 まさか同じ服を着るわけにもいかないし……。


 考えていると、またしても着信。


『それでは明日、よろしくお願いします。石田さんは焼き鳥はお好きですか? とても美味しい焼き鳥屋があって、そこのランチメニューが絶品なんです。Y町のあたりで海岸沿いで景色も良いですし、ランチの後に軽く海辺を散歩なんていかがでしょうか?』


 焼き鳥屋とは意外な……。


 高級料亭とか言い出しそうな感じの人だったのに。いや、実際に言われても困るけど。


 しかしチョイスとしては絶妙だ。Y町は夜は立ち飲みできる気軽な居酒屋からデート向きのバーまで様々な層を狙う飲み屋街ではあるが、昼間は雰囲気がガラッと変わり、おしゃれな主婦向けにお得なランチをやっている店も多い。


 沙智としても敷居が高すぎず、デートスポットとして下品さもないちょうど良い場所だ。さすがやり手の営業マン。


 Y町で焼き鳥屋に散歩……ってことは服装もカジュアル目でいいかな。


 どうやら今日慌てて服を買いに行かずに済みそうだ。事前にデートプランを聞かせてくれて助かった。


 何回かやり取りをして待ち合わせ時間などを決めると、沙智はようやく一息ついてスマホを手放した。


 こういう緊張感は久しぶりだ。おかげでまだ起きてから一時間ほどしか経っていないのにすでにすごく疲れている。


「あーあ」


 ぐるぐると肩を回して大きくため息をつく。


 それにしてもなんでこのタイミングで誘われたんだろう?


 テーブルに置かれたスマホをなんとなく見つめ、ふと湧いた疑問に頭を傾げる。


 合コンの時に沙智のことを気に入ったのならもっとすぐに連絡があっても良さそうなものだ。なのに実際に連絡があったのは合コンから数日経ってから。


 忙しかったのか、実は大してその気がないのか。後者のような気がしてならない。


 またはあの合コンで別に本命がいたけれど、振られたから仕方なしに二番手か三番手の沙智に声をかけたか。


 事実はわからないのに勝手に嫌な気分になり、沙智はそれを振り切るように目の前の食べかけの食事に手を伸ばした。


 やめやめ。卑屈だってまた怒られる。


 親友と哲の顔を思い出して皿の中身を口に運ぶ。冷めきった料理はなんの味もしない。


 とりあえず明日はデート、その前に今日のうちに部屋の片付けして気分を上げる。それで買い出し行って夕飯は美味しいものを作る。


 ざっくりとこの後の予定を決めて皿の中身を全部すくうと、沙智は大きく開けた口の中へそれを押し込んだ。

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