第52話 親の鎹
「亜寿沙。何か食べられる? スイカでも持ってこようか?」
賑やかに食卓を囲んだ後、母親と義妹が後片付けを始めた頃合いで上階で休む妹の様子を見に来ると、妹は少し回復したらしい。先ほどよりも明るい顔色で薄く笑みを見せた。
「ありがとう。さっき千尋さんがアイス持ってきてくれたから今は何もいらないかな」
上半身だけ起き上がって沙智の持ってきたお茶を口にすると、妹は少し悪戯っぽい視線を寄こした。
「そういえば沙智ねえの同僚の人来てるんでしょ?」
「ああ、うん」
よくわからない後ろめたさに目をそらすと、妹はふふふ、と笑う。
「イケメンだってお母さんがはしゃいでるらしいじゃん。やるね」
「そういうんじゃないってば」
慌てて首を振ると、妹の目がふと遠くを見た。
「沙智ねえが選ぶ人だもん。きっと素敵な人だよね。私、沙智ねえにはちゃんと幸せになってほしい」
彼女の目にさした暗い影に沙智の胸がずきりと痛む。妹の寝るベッドの横に膝をついて、彼女の手をそっと取ると彼女は不思議そうに視線を沙智へと移した。
「亜寿沙。上手くは言えないけど……いざとなったら私も、泰久も、もちろんお父さんとお母さんだって亜寿沙の味方だよ」
彼女がどんな決断をしようとも。
もちろん何を決めるにも簡単な状況ではないけれど。
妹の目に涙が溜まっていくのを見ながら、握った手に力を込める。
「ありがとう。でも決めたの。俊ちゃんがどんなに浮気しても、最後に帰りたいって思うのは私のところであるように、私はいい女でい続けようって」
その言葉に沙智は何も言えずに彼女を見る。
弱々しく沙智の手を握り返す妹の目は、しかし決意に満ちてどこか力強い。
「少なくとも子供たちがもう少し大きくなるまではね」
ああ、そうか。
彼女の人生はもう彼女だけのものではないのだ。
納得して目を伏せる。
それはきっと茨の道だけれど。
でもどちらに転ぶにしても決して易しい道ではないから。
「俊ちゃんを殴りたくなったらいつでも呼んで。私が思いっきり殴ってやるから」
母の顔をする彼女に畏敬の念を込めながら沙智が笑いかけると、「もしかしたら明日にでも頼んじゃうかも」と妹が笑い返した。
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妹を部屋に残して階下へ降りていくと、父親が下駄箱で何かごそごそしている。
「どこか行くの?」
背後から声をかけると父親はサンダルを手に振り返って「うん」とうなずいた。
「最近、夕飯後は散歩してるんだ。沙智も来るかい?」
問われてちらりとリビングを振り返る。
哲は弟とすっかり打ち解けたらしく、夕飯の時から幼馴染も交えて三人で楽しそうに酒を酌み交わしている。
「じゃあ行こうかな」
放っておいても勝手に盛り上がっている男性陣の笑い声を背中に、沙智も靴に足を入れた。
「陽が落ちても暑いねえ」
ぱたぱたと手で顔を仰ぐ父親に黙ってうなずく。こんな風に父親と二人で過ごすのなんて何年ぶりだろうか。
「あ、そういえば冴島さんが今日お見合い話持ってくる予定だったんだって?」
言われて、はっと思い出す。
今日中に来るはずじゃなかった?
ざっと血の気が引く思いで家を振り返ると父親が隣でのんびりと笑った。
「母さんがさっき謝ってたよ。電話で『沙智に婚約者がいたー』って大騒ぎ。母さんの中ではすっかり沙智と菅原さんが結婚することになってるみたいだ。困ったもんだねえ」
父親の言葉にぽかんと口を開ける。
もう何を言っても母親には通じないのだろうか。呆れすぎて沙智も笑いがこみあげてくる。
「あーあ。もう」
ため息交じりにつぶやくと、父親が顎を撫でながら空を見上げた。
「お父さん、さっきはありがとう。哲とはいろいろあって、その……、まだはっきりした関係じゃなくて……」
だから、と言いかけて父親を見ると、父親はゆっくりと空から沙智へ視線を移し真剣な眼差しで沙智を見つめ返す。
そのまま黙り込んだ沙智に父親はただ優しくうなずいた。
「沙智ももう大人だし、人間関係はいろいろあるだろうさ」
ペタペタと父親のサンダルが足に跳ね返る音。じわじわと蝉の鳴き声。混ざり合ったその音を聞きながらしばらく無言で歩く。
「母さんがああだから」
囁くように言った父親は、しばらく考えるように黙り込んでからまた口を開く。
「お前たちには結婚について余計なプレッシャーがかかっちゃってただろうな。まあ泰久と亜寿沙はああいう性格だから母さんともうまくやってたけど、沙智はなあ。気が強いとこは母さんに似て、理屈っぽいところは父さんに似ちゃったからなあ」
くくく、と笑う父親をじろりと睨む。それではまるで沙智が二人の悪いところばかりを受け継いでしまったようだ。
憮然としている沙智に、しかし父親は「お前が一番父さんと母さんに似てるんだよ」とまた笑った。
「でもね、母さんは母さんなりに子供たちのことを思っての言動だからね。あんまり責めないでやってよ」
難しいかもしれないけど、と付け足して微笑んだ父親に何も言えず黙ってうつむく。
わかっている。わかってはいるが、頭でわかっていても心がついていかない時だってある。
夜でもうるさい蝉の鳴き声が耳をつんざく。
並んで歩く自分と父親の足を見る。
お父さんの足ってこんなに小さくて骨ばってたっけ?
「……父さんと母さんの結婚はね、始まりは幸せなものじゃなかったんだ」
意識がそれたところで父親が話し出したのに、つられて沙智は視線を上げた。
「母さんはね、父さんとお見合いする前に別の男の人と駆け落ちしてたんだ」
その言葉に沙智は衝撃を受けて「えええ!」と大きな声を上げた。
そんな話は今まで一度も聞いたことがない。両親が見合い結婚だということは知っていたが、まさか母親側にそんな過去があったなんて。
父親は沙智の反応に満足そうににやりと笑う。
「まあ事情はいろいろあったけど、簡単に言えば母さんが当時付き合ってた人との結婚を家族に反対されて家を出て、連れ戻された後に無理やり父さんとお見合いさせられたんだ」
駆け落ちなんて小説やドラマの中の話じゃないの? ほんとにする人いるんだ。
それが自分の母親だということが信じられず沙智は眉をひそめて父親を見た。父親に担がれているのではないだろうかという疑心さえ芽生えてくる。
「父さんはさ、こんなだから昔から女性にモテなくてね。結婚できるなんて思ってなかったから、相手が誰だろうと結婚してくれるならありがたいなってことで、母さんとのお見合いを受けたんだ。それでそのまま話が結婚まで進んでいくのを他人事みたいに眺めてた」
少しきまり悪そうにそう言った父親が、沙智の反応を見るようにちらりと視線を寄こす。
ふと思い出すのは母親の悲しそうな顔。小さいころ、沙智が一度だけ母親に二人の馴れ初めを聞いたときに見せた彼女の顔だ。
純粋に結婚に憧れ、期待に満ちていた幼い沙智の顔を、母親はどんな思いで見ていたのだろうか。
見合い結婚だったと語るに留まった母親のその顔に幼いながらに何かを感じ、沙智もそれ以来両親の結婚について何も尋ねていない。
「結婚して母さんは少し鬱っぽくなってね。沙智を妊娠している間も家にこもっていることが多くて、あんまり感情を表に出さなくなっていた。父さんは人の心がなかなかわからない朴念仁でね。仕事も忙しくて家を空けることが多くて、母さんのことを十分に気遣ってやれなかったんだ」
後悔するようにそう言った父親が自分の手を見つめてぎゅっとこぶしを作る。
「でもね、沙智が生まれた時、母さんは泣いたんだ。『ありがとう』って沙智を抱きながら何度も何度も。それから母さんは明るくなった」
沙智に視線を移した父親が、泣きそうな顔で笑う。感情の起伏の少ない父親がそんな顔をするのを初めて見て、沙智は驚いて息を詰まらせた。
「母さんにとって沙智は希望だったんだ。生きる希望。幸せの象徴。父さんと母さんの結婚生活がここまで続いたのは母さんの努力のおかげだ。でもそのきっかけを作ってくれたのは沙智だよ」
生きる希望。幸せの象徴。
自分はずっと母親に疎まれていると、そう思ってきていたのに。
昔からそりが合わないと思っていた母親が、その裏でどんな思いで沙智を育ててきたのか。
「母さんは必死なんだ。沙智が、子供たちが、幸せな両親のもとに生まれてきたということを証明したくて。だから結婚は幸せだっていう方程式に執着してる。自分が幸せだって自分に言い聞かせるために。……父さんが不甲斐ないからだね」
自嘲するように笑った父親に、沙智は唇を震わせる。
「違うよ、お父さん」
父親がゆるりと顔を上げるのを見つめて、沙智の内側から何か熱いものがこみ上げる。
「お母さんは幸せなんだよ」
幼いころの記憶。鼻歌まじりに夕食を作る母親。玄関から聞こえた物音に、父親の帰宅に気づいたときに見せた、母親の弾けるような笑顔。
幼い沙智の目に焼き付いたあの笑顔。
「お父さんと結婚できて、幸せなんだよ」
あの笑顔に嘘はない。
たとえ出会いは幸せなものでなかったとしても。
関係性は変わっていく。
一瞬だけ哲の顔を思い出し、沙智は優しく微笑んだ。
「そうか」
目を見開いた父親が、何か重い荷を下ろしたように本当に薄く微笑む。
「そうだといいな」
父親のごく小さなつぶやきを、蝉の鳴き声が蒸し暑い空気の中にさらっていった。
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