第53話 笑顔を飾る

 相変わらず蒸し暑くて立っているだけでも汗が噴き出てくる陽気の日曜の朝。玄関で靴を履いて荷物を持つと、沙智は上がり框に立つ両親を見た。


「じゃあ行くね。またね」


 沙智がさっぱりと声をかけると横に立つ哲が気まずそうにぴしっと頭を下げる。


「お見苦しいところをお見せした上にすっかりお世話になってしまい、本当にすみません。またお礼に伺います」


 本当は実家に泊まるつもりはなかったのに、昨夜父親とともに散歩から帰ると哲含め男性陣がへべれけ状態になっていた。


 義妹は弟を置き去りに姪を連れてあっさり帰宅していったが、沙智はさすがに哲を置いていくわけにはいかない。


 結局、哲、弟と幼馴染でリビングに雑魚寝し、沙智は妹が寝泊まりする部屋で一泊することになったのだ。


「いいんですよ。菅原さんはもう家族も同然なんですから。いつでもいらしてね」


 母親は上機嫌に言ってやたらに手を振っている。と、二日酔いのダルそうな体を引きずった弟がリビングから「菅原さんまたー」と顔を出した。


「どうもありがとうございました」


 会釈した哲に会釈を返して顔をひっこめた弟に、母親が呆れたようにため息をつく。そのままの勢いで目線を戻した母親は、むっすりした顔で沙智を睨んだ。


「沙智ももうちょっと実家に帰ってきなさいよ。あんたは全然実家に寄り付かないんだから」


 言われて肩をすくめながら父親に目をやると、父親は少し困った顔で笑っている。


「年末にでもまた帰ってくるよ。今度はお母さんの好きなチーズケーキ買ってくるから」


 そして母親を見ると、彼女はなんだか意外そうな顔で沙智をまじまじと見て、それからふわりと笑った。母親にこんな笑顔を向けられたのはいつ以来だろうか。


「じゃあね」


「失礼します」


 両親に見送られて玄関を出る。照り付ける太陽は痛いほどに肌を焼き、沙智は眩しさに目を細めた。


 バスに乗るか歩いていくか。


 迷いながら二人並んで歩いていると、哲が深刻な顔をして「あのさ」と口を開く。


「お父さんとお母さんに呆れられてないかな……」


 わざわざ玄関から見送る両親が見えなくなったのを確認してからつぶやいた哲に沙智は思わず吹き出した。


「なんだよ……」


 唇を突き出した哲に沙智が堪えきれずに笑っていると、彼はさらに不満そうな顔をした。


「ごめんごめん。だって哲があんな風に緊張してるの初めて見たから」


 大人相手なら誰に対してもそつなく接すると思っていたのに。


「そりゃ俺だって緊張するって。好きな人の親に挨拶なんてシチュエーション初めてだし。しかもなんの準備もできてなかったし」


 好きな人?


 哲の言葉に一瞬思考が停止し、ゆっくりと視線を上げると彼は照れたように沙智から目をそらした。


「その……。いろいろあって順番がめちゃくちゃになっちゃったんだけど……」


 歩きながらどこか居住まいを正した哲が、ちらりと沙智に視線を寄こしてまたそらす。


 そして決意を固めたように沙智の手を引いて、哲はその場に立ち止まった。


「沙智、好きです」


 真剣な眼差しで、何の飾り気もない。ストレートで裏表のない言葉。


 何度も何度も。言われたその一言を頭の中で反芻する。


 実感がつかめないまま視線を落とすと目に入るのは繋ぎ合った二人の手。


 うだるような暑さの中、熱くさえ感じる彼の体温が心地良いのは、沙智が彼を確かに愛しく思っているから。


「あの、沙智さん。そろそろ何か一言いただけませんか……?」


 続く沈黙に耐えられなくなったのか、哲が居心地悪そうに視線をさまよわせる。


 そわそわしている彼に、急に悪戯心が沸き上がり、沙智は繋いでいた手をぱっと離した。


「うん、でも、いきなりそんなこと言われても信じられないかなー。私のこと元彼とかお姉さんの身代わりに使おうとしてたわけだしー」


 わざとらしく語尾を伸ばしてちらりと横目で見ると、哲が目に見えて焦った顔をする。


「いや、それは、その、本当に申し訳ないと思ってて……」


 あたふたと弁明する彼がおかしい。


「まだ元彼のこと気になってたりするんじゃないのー?」


 さらに畳みかけるように皮肉っぽく言ってみる。


「それはないよ」


 しかし哲の反応は、沙智の予想していたものとは全く違っていた。


「それはない」


 きっぱりと言い放つ哲の表情に呑まれそうになる。


 怒らせちゃったかな。


 思いがけず真剣な顔をする哲に、今度は沙智が焦って口を開こうとしたとき、哲がふと笑みを作った。


「ごめん、不安にさせて。実は金曜の夜に禅さんから連絡があったんだ」


「禅ちゃんから……?」


 髭面マッチョのバーのマスター。そういえばお店で騒ぎを起こしたことをまだ謝れていない。


「沙智とタカが、あの、前のパートナーだけど、あいつがバーで派手に喧嘩してたって」


 言われて顔から火が出そうになる。もうずっと前の出来事のように感じるが、実際には一昨日のことだ。


「あの、それはその……」


 まさか禅ちゃんが哲に連絡してたなんて。


 しどろもどろに言い訳しようとするが、うまい言葉が出てこない。どうにも申し開きのしようがないと諦めかけたところで哲がまた笑った。


「俺のために怒ってくれたんだろ? 聞いてるよ」


 呆然と彼を見上げると、彼が沙智に手を伸ばす。


「あの時は自分でも意識してなかったけど、俺、禅さんの電話受けてからずっと沙智のことしか考えてなかった。沙智のことが心配で、取引先との飲みも早く終わらせて慌てて帰って……。タカのことなんて全然頭になかったんだよ」


 沙智の頭にぽん、と手を置いた哲が気恥ずかしそうに笑う。


「昨日の朝、沙智がいなくなってからそのことに気づいたんだ。いつの間にか俺の中でタカよりも誰よりも沙智の方が大事になってたって」


 いなくなってから気づくなんて馬鹿だよな、とつぶやいた彼の手が沙智の頬へするりと下りてくる。少し屈んだ哲が、その唇を沙智の耳に寄せる。


「強くて優しい沙智が好きだよ。素直になれないとこも可愛いし、芯の強さも尊敬してる。甘え下手だけど意外と寂しがり屋だったり、おとなしそうに見えて実はハッキリ意見言えちゃうとこもすごいと思ってる。それに……」


「も、もういい」


 耳元で流れるように囁かれる言葉の数々に顔を真っ赤にして咄嗟に彼の口元を手で覆う。


「もう、わかったから……」


 耳まで熱くなった顔を上げ彼を見ると、今度は哲が悪戯っぽく笑った。それにつられて沙智も微笑む。


「帰ろう」


 そうして二人、また手を繋いで蝉の鳴き声の中を歩きだす。


「今度またここに来るときは結婚の挨拶の時かな」


 つぶやいた哲に、沙智は首をかしげる。


「結婚するの?」


「しないの?」


 二人で首をかしげ合って、また笑い合う。


「哲、大好きだよ」


 握った手をより一層強く握ってそう告げると、彼は眩しそうに目を細める。


 今、確かに感じる手の中の温もりに、何度も遠回りした道を思い返す。


 始まりは最悪だったけれど、泣いて、傷ついて、傷つけて、それでも前進してきた道を、今は愛しくさえ思える。


 全部、あなたのおかげ。


 隣に立つ彼が屈託のない笑顔を見せる。


 それに応えるよう、沙智は満面の笑顔を彼に向けた。

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帳越しに見える月 伊月千種 @nakamura_aoi

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