第35話 吾唯足不知

 週が明けた月曜の夜。


 休みが終わってしまったという気だるさと、それでいて休息後の活気にも満ちているバーの喧騒の中、哲が沙智を見つめたままゆるりと手を上げた。


「ねえ、誰? 誰?」


 すっかり酔いから覚めたらしい親友が沙智の服の裾を興奮気味に引っ張る。


 いつからいたのだろうか。こちらに気づいていてなぜ声をかけてこなかったのだろうか。何よりあの表情の意味は何だろうか。


「その、例の同居人」


 困惑しながら親友に答えると彼女が「紹介、紹介」とまた服を引っ張る。


 果たして今、哲に話しかけてもいいのだろうか。


 ふと昨夜の哲の様子が思い浮かぶ。


 彼はあの時、きっと元彼と連絡を取っていた。このバーは哲と元彼との唯一共通の行きつけだ。


 もしかして、と思いながらボックス席に座る哲をもう一度見る。弱々しく笑う彼とまた目が合った時、沙智は意を決して哲の方へ足を踏み出した。


 たとえ哲が誰かと一緒にいたとしても、ただの同僚兼友人として話せばいいのだ。何を迷う必要があるのか。


 月曜にしては人が集まっているバーの中を人込みをかき分けてまっすぐ歩く。


「哲、いつの間にいたの?」


 声の届く距離になると沙智はなるべく明るく弾んだ声を出しながらさらに哲に近づいた。と、彼が少しだけ瞳を揺らす。


「ついさっきだよ。真後ろ通ったのに全然気づかなかっただろ?」


 確かにバーの入り口からこのボックス席に来るのには沙智たちが座るカウンターの背後を通らなければならない。だが基本的に人の行き来の多い店内でわざわざ背後を通る人間など気にしていられない。


「気づいてたなら声かけてくれれば良かったのに」


 少しのうしろめたさに逡巡してそう返すと、哲は柔らかく笑って視線を俯かせた。


「ところでこの子、私の大学時代からの親友の高木真奈。真奈、同僚の菅原哲さん」


「こんばんは。はじめまして。うちの沙智がいつもお世話になってますぅ」


 背後にピッタリ控えていた親友が、沙智の紹介に待ってましたと言わんばかりにずずいと前へ出る。


 そのまま、まるで常連さんに愛想を振りまく八百屋のおばちゃんのごとく前のめりになった彼女は哲の顔を無遠慮に覗き込んだ。


 そんなぐいぐい行く?


 親友の押しの強さに驚きながら哲の様子をうかがうと、彼はパッと顔を上げてさわやかな笑みを浮かべた。


「どうも、菅原です。はじめまして。石田さんにはむしろ僕の方がお世話になってるくらいですよ」


 先ほどの消え入りそうな表情とは違い、人好きのする隙のない笑顔。それはいつも会社で見る哲の営業スマイルだ。


「そうですか? この子ってしっかりしてそうで意外と頼りないから菅原さんみたいな人と知り合いってわかって安心です。あ、ちなみにあっちのカウンターに座ってるのは私の彼氏の康正です。すみませんね、ご挨拶にも伺わずに」


 彼女が指さした先、カウンター席で座ったままの彼氏が軽く会釈する。それに応ずるように会釈した哲は少しだけ目を見開くと沙智に視線を飛ばした。


 ん? 何?


 その視線の意味がわからず沙智もつられて目を見開いていると、親友が沙智の背中を軽く小突く。


「じゃ、私は戻るからあんたはゆっくり話していきなさいよ」


 耳元でそれだけ囁くと彼女は「今度また四人で一緒に飲みにでも行きましょうねぇ」と甘ったるい声を出して足早に立ち去った。


 その唐突な振る舞いに呆気に取られて彼女の背を見送っていると哲が遠慮がちに沙智の手を引っ張る。


「座る?」


 問われてどうすべきかその場で二の足を踏んでいると、今度は思いがけず強い力で手を引っ張られた。


「うわっ」


 そのまま倒れこみ哲の膝の上に覆いかぶさる。


「ちょっと!」


 慌てて起き上がり非難の声を上げると哲が「ははは」と楽しそうに声を上げた。


 なんだ、元気じゃない。


 安堵したような拍子抜けしたような腑に落ちない気分。改めて哲の隣に座りなおすと、どこからか現れた若いバーテンダーが沙智の前に薄ピンクのカクテルを置いていく。


「あの、これ?」


 驚いて尋ねれば柔らかくも無機質に「マスターからです」の一言。周囲を見回すとカウンターの向こうで目が合ったマッチョの髭面マスターが沙智にウィンクをよこす。


 どういう意味よ。


 哲に見えないように顔をゆがめてマスターを睨みつけ、呆れながらもありがたくそのグラスを手に取った。


「そういえば、哲は誰か一緒じゃないの? 私がここにいて大丈夫?」


 カクテルに一度口をつけてから思い出したように尋ねると、同じようにグラスを傾けていた哲が肩をすくめる。


「約束してたんだけどドタキャン。おかげで一人で飲む羽目になってたとこだから沙智がいてくれて良かったよ」


 そう言いながら片手でネクタイを緩める哲からはいら立ちも悲しみも感じられない。まるで家にいるときのようなリラックス加減だ。


「そう」


 相手が誰と聞くことはせず、ただ静かに相槌を打つ。とりあえず哲が傷ついていないのならそれでいい。


「そっちこそいいの? せっかく友達と飲んでたのに」


「うん。別に約束してたわけじゃないの。一人で飲みに来たらたまたま会っただけ」


 深く腰かけなおしてそう告げると、哲が今度は少し考え込むような表情で顎に手を当てた。


「さっき声かけなかったのはさ、その……。沙智が男の人と二人で飲んでたから遠慮したというか……。もしかして昨日のデート相手とまた会ってんのかなーと思って」


 なるほど、親友が席を外していた時にちょうど見られたのだろう。それは誤解されても仕方ない。


「残念ながら違うよ。それに昨日の人は私には興味なかったみたいって言ったでしょ」


 言い含めるように口にして、でもまたあの人と食事に行くんだっけと思い出す。二人きりではないものの、二人きり以上に面倒な食事会だ。


「今日さ……」


 そうつぶやいて止まった哲は、両手の指を遊ばせながら視線をあちこちに飛ばし、落ち着きなく何度か口をパクパクさせた。


「会社で、沙智に新しい彼氏ができたって噂聞いたんだ。聞いたっていうか、女の子たちが廊下で話してるのが聞こえてきただけなんだけど……。だからもしかしたらって思って」


 思いがけない哲の話に沙智の目が今までにないぐらい大きく見開かれる。


「なにそれ? どこからそんな噂……」


 言いかけて今日の昼間の給湯室での出来事を思い出す。


 浅海さん……!


 噂の震源地にピンと来て、両手で頭を抱え座っていたソファの背もたれにだらりと背を預ける。


「あー、もう!」


 いら立ちの声を上げてほぼ仰向けの状態で足をバタバタさせると哲が困惑した顔で沙智を見た。


「違うの。昨日のデートを経理部の後輩に見られてたみたいで、それでそんな噂が立ったんだと思う。っていうか違うって言ったのに何でそんな噂立てるかなー。ほんっと人の話聞かないんだから」


 勢いよく起き上がり、言い訳とも愚痴ともしれない言葉を並び立てて大きく一つため息を吐く。


 もしかして明日出社したらまたこの噂のことでいろいろ言われるのかな。


 考えるだけで憂鬱だ。会社なんだから淡々と仕事だけしてほしい。


 思っていると、ふわりと温かい感触が頭に乗った。


「仕事以外でそういうのは面倒だし大変だよな。お疲れさん」


 よしよしと頭を撫でられそのまま哲の肩に頭を持っていかれる。その予想外の動きに沙智の顔が思わず紅潮した。


「いや、うん、あの、うん。ありがと」


 間近で感じる肌の温もりに動揺しながら早口につぶやく。


 なんか哲ってやたら距離感近い人だよね。


 深く知り合うようになってから、ことあるごとに彼との密着度は友人同士としてはかなり高い。


 あ、でもそういう対象じゃないってお互いにわかってるからこそのこの距離感か。


 そう思い至ったら自分だけ意識して恥じらっているのが馬鹿らしくなる。


 もう何でもいっか。


 そうして思考を手放した沙智は、隣にいる男の体に腕を回すと思いきり力を込めた。

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