第36話 彼は思案の外
パッと目を覚ますと身体中を不快な熱気が覆っている。
吹き出した汗を拭いながらのろのろとソファベッドから起き上がると、エアコンからやたら低い異音と熱風が出ていることに気づいた。
慌ててリモコンを探して電源を切り、呆然としてからもう一度電源を入れてみる。しかしエアコンはカタカタと震えるとしばらくしてから完全に沈黙した。
え……。壊れた?
これからまだまだ夏は続くというのにこんな時期にエアコンが壊れるのは困る。何度も電源を入れたり切ったりしてみたが、今はもう、うんともすんとも言わない。
勘弁してよ。
リモコンと体をソファベッドの上に投げ出す。枕元に置いていたスマホを引き寄せて見るとアラームの設定時間よりもだいぶ早い。
なんとかもう一度寝ようとしばらくゴロゴロしてみたものの、東日の入る明け方のこの部屋はとてもじゃないけれど暑すぎて寝付けない。
仕方なく起き上がって廊下に出ると、リビングの方からひんやりとした冷気が漂ってきた。どうやら哲はこんな時間にもう起きているらしい。
ドアから漏れ出る蛍光灯の光を横目に、汗まみれの顔を洗いに洗面所のドアを開ける。
冷たい水でさっぱりしてからリビングへ向かうと、ダイニングテーブルでパソコンに向かっていた哲がこちらに視線を向けた。
「おはよ。早いな」
「お、おはよう。そっちこそ。仕事?」
哲の視線を受けて妙に喉の渇きを覚えた沙智は、彼から微妙に目をそらしてそそくさとキッチンへ向かう。
まだパジャマ姿の彼は欠伸混じりに「そう」と答えると、立ち上がってコーヒーカップを片手に沙智の後をついてキッチンに入ってきた。
「沙智もコーヒー飲む?」
尋ねられて水を飲みながら何度も細かくうなずく。すると、哲がさらに一歩沙智に近づいた。
「ちょっと失礼」
言いながら沙智を胸の中に抱え込むようにして沙智の背後にある食器棚を開けた哲に、沙智は昨晩のバーでの失態を思い出す。
お酒が入っていたとはいえ公共の場であんな風に哲に抱きつくなんて、どうかしていた。
バーを二人で辞するときのマスターや親友の揶揄うような表情が忘れられない。
「どうかした?」
怪訝そうに顔をのぞき込んできた哲に思わず一歩引いて首を振る。
「ううん。ただ昨日……、なんか酔ってて、あんな風に抱きついたりして、ごめん」
話題になんて出すつもりはなかったのに、ついつい口にしてしまってから後悔。こわごわ彼の反応を待っていると、哲は何事か思い出すように少し目線を遠くにやってから、こともなげに笑った。
「別に、あれぐらい。俺ら家族みたいなもんじゃん」
家族……。
そうね、そうよね。何を空回っていたんだろう。
彼の愛情表現は親愛であって恋愛ではない。そんなの当り前だ。
すとんと腑に落ちた気がして突然冷静になる。
「コーヒーちょっと濃い目にしとく?」
「部屋のクーラー壊れた」
哲の言葉に被せるようにそう告げると、彼は「え」と面倒くさそうな声をあげた。
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「んー、業者呼ばないとわかんないかも」
熱気のこもる部屋で哲がエアコンのカバーを開けていろいろと試してみるが、やはりエアコンは反応しない。
「大学の時から使ってる古いやつだから寿命かもなー」
確かにリビングにあるものより明らかに年季の入ったこのエアコンは、しかし昨夜までは何の問題もなく動いていた。ずいぶんと大事に使われてきたようだ。
カバーをバタンと閉めた哲が台座から降りてもう一度エアコンに視線をやると目を眇める。
「それなら新しいやつ買うよ。私が使うんだし」
「うん。まあでも一度修理してもらってみよう。直るか新しいのにするまでは悪いけどリビングで寝てくれる?」
わかった、とうなずいた沙智に笑いかけ部屋を出ようとした彼に、ふと思い出して声をかける。
「ねえ哲。そういえばこの前面白いもの見つけちゃったの」
振り向いた哲の額にうっすらと汗が浮かんでいる。悪戯っぽく笑って本棚に歩み寄ると、沙智は数少ない本の中から一冊を取り出した。
「これ。哲の中学のときのアルバムでしょ?」
表紙を哲に見せるように掲げると、彼は「お」と驚いた顔をした。
「ほんとだ。懐かしい。こんなとこに置いてたんだ」
沙智の手の中のアルバムをしげしげと眺める彼に「見てもいい?」と尋ねると彼は何を気にした様子もなく「いいよ」と応じる。
早速最初の数ページをぱらぱらとめくってみると、アルバムの中から何かがひらりと舞い落ちた。それがそのまま滑るように哲と沙智の間の空間に着地する。
あ、あの写真……。
前にこのアルバムを見つけた時に偶然見てしまった写真だ。おそらく中学生ぐらいの哲と、哲とよく似た美人が並んで笑顔で映る写真。
「ごめん、何か落ちちゃった」
慌てて写真を拾おうとしゃがみ込むと、しかしそれを阻むように哲が素早く動いて沙智の目の前から写真をさらった。その突然な動きに思わず沙智は目を丸くする。
「……その……」
気まずそうに沙智から視線を外した哲は、少し口ごもると立ち上がって部屋の入口へと歩いていく。
「アルバム、好きに見ていいから」
背中越しにそう言った哲は手の中の写真を握りしめたまま沙智を振り返ることはしない。
踏み込むな。
そう拒絶された気がして、沙智はしゃがんだままバタンと閉まるドアを見つめた。
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