第34話 彼にあることは彼女にもある

 お酒が進んでくるとだんだん口も滑り本心が見え隠れするようになる。周囲でも静かに飲んでいたグループがだんだんと騒がしくなるのを見て、良い感じに酔っ払い始めているのがわかる。


「普通ただの同僚を家に住ませる? 沙智は何とも思ってなくてもあっちには下心あるんじゃないかなー?」


 何杯目かのハイボールで顔が赤らみ始めた沙智の親友も例外ではないらしい。沙智に寄りかかりながら先ほどまで黙っていた本心が漏れ始めた。


「そんなことないって。前にも言ったけどそういう人じゃないし、わざわざ私を相手にしなくても引く手数多だから」


 以前にもこのバーで同じようなことを心配していた親友は沙智の説明にも「えー?」と不満顔。


「でもさー、男女がさー、一つ屋根の下でさー、ずーっと一緒に暮らすってさー、何も起こらない確率の方が低そうじゃない? どう思う? 康正?」


 話を振られた彼氏は口にしていたグラスをカウンターにそっと置くと「んー?」と柔らかく唸る。


「どうだろうな。人にもよるかな。俺の連れの中には悟り開いた僧侶かってぐらいそういう欲求がないやつもいるし。あとは相手がタイプじゃないとか、対象じゃないとそんな気が一ミリも起きない場合もあるし」


 まさに哲の沙智に対する感覚そのものだ。ふ、と苦笑して手元のグラスを口につける。


 と、右隣の彼が沙智の様子に何かを感じたのか慌てたように続けた。


「いや、その、相手に魅力がないとかじゃなく、ただその、こういうのってフィーリングとか相性とか、その日の気分とかでも違ってくるし、微妙なとこだよね」


 しどろもどろに弁明する右隣の男に沙智はただ笑顔を向ける。


 沙智にだってわかっている。指向や嗜好は感覚的なものや先天的なものが多く本人でもコントロールできることは稀だろう。別にそこに沙智が落ち込む要素なんて一つもない。


「んー。よくわかんなーい。でもさ、康正は私と同じ家に住んでて全く手を出さないでいられるわけー?」


 本格的に酔っ払いはじめている親友が沙智にしな垂れかかりながら彼氏の腕を掴む。


「いやいや、それとこれとは全然別の話だろ……。真奈、酔いすぎ。ちょっと酔い覚ましにいくか」


 絡まれた彼氏が困惑した顔で彼女の腕をつかんで立ち上がる。しかし彼女はその腕を振り払って自分の足でしっかりと立った。


「んー。トイレ行ってくる」


 そのまま席を立った彼女を見送って沙智は立ったままの彼を見上げた。


「大丈夫かな、真奈」


「うん、まあ。しっかり歩けてるし、まだ大丈夫だと思う」


 彼女の後姿に心配そうに目をやっていた彼が首を引っ込ませて座りなおす。途端に緊張しはじめた沙智は、無意識に背筋を伸ばした。


 親友の彼氏だからなるべく仲良くしたいとは思うものの、沙智は彼のことが少し苦手だ。話していてもあまり表情が変わらない彼は何を考えているのかいまいちよくわからない。


 おまけに背も高いので横にいるだけで威圧感を感じる。背の高さだけで言えば哲も同じぐらいなのだが、どちらかといえば細身の哲と比べると彼は筋肉質のため哲よりも一回り大きく見えるし凄みがあるのだ。


「新しい生活はもう慣れた? 準備も覚悟もなく急だったから大変でしょ?」


 視線を前に戻した彼がグラスを手の中で弄びながら横目で沙智を見る。その切れ長の目に見つめられると意味もなくドギマギしてしまう。


「うん。取るものもとりあえずって感じだったし、いろいろ捨てちゃって後悔してる部分もあるんだけど同居人が不便がないようにって気を使ってくれるからなんとか」


「そっか。良い人そうだね。とりあえず安心かな」


 ふと笑みを含んだその瞳とその言葉に思わず沙智の顔もほころぶ。


「なんか康正くんにも心配かけちゃったみたいでごめん……。でもありがとう」


 素直に謝罪と礼を言うと、彼は正面に向けていた体を少し沙智の方へと向けた。


「いやいや、俺が勝手に心配してるだけだから詫びも礼もいらないよ。真奈の大事は俺の大事でもあるからね」


 見た目は厳ついけれど、声や喋り方は柔らかい。そういえば真奈もそこが彼を好きになったきっかけだって言ってたっけ。


 改めてなんだか羨ましくなり、薄く息を吐く。


「でもさ、さっきの真奈じゃないけど、付き合ってない男と同居って結構しんどくない? 気を遣うのもそうだし、今は何とも思ってなくてもこれからどっちかがどっちかのこと好きになったり、弾みで関係持っちゃったり、もしくはどっちかに恋人ができたら気まずくならない?」


 ごもっともな意見だ。学生や遊び盛りの二十代前半ではなく、沙智も哲も年齢だけ見れば近い将来を見据えるときに結婚という二文字が現実的に見えてしまう。


 もちろん結婚する、しないは本人の自由だが、結婚に関する社会的なプレッシャーは本人が望まなくてもどういう形であれ確実に存在する。


 そんな年代の恋人でもない男女が同居を始めるなど、普通はあまり考えられないことだろう。


「うん、そうかもね……」


 これが普通の男女の話だったら沙智だってこんな選択はしなかった。


 いや、普通の男女だったらきっと哲とこんな関係にはなれなかった。


「ねえ、沙智。あのイケメンと知り合い?」


 声をかけられハッと顔を上げると、さっきより些かすっきりした顔の親友がバーの奥の方を見ながら沙智の肩に手を置いている。


「どの人?」


 俯きかけていた気分を振り払うように彼女の目線を追って、ある一点で視線を止める。少し離れたボックス席で一人で静かに飲んでいるスーツ姿の男性。


「哲……」


 疲れたような顔でこちらを見つめる同居人が、沙智の視線を受けて薄く微笑む。


 儚くて崩れてしまいそうで、どこか悲し気な笑顔。


 彼のその表情に既視感を覚え、わけもなく沙智の背中に冷や汗が流れた。

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