第33話 酒で喉を締める
後輩と会社最寄りの駅構内で別れ、自宅へ戻るのとは別の路線へ。
行先はオネエ口調のマッチョがマスターを務めるバーだ。とにかく最近のうっ憤を誰かに聞いてもらいたい。
なんだかんだと週一で通うバーの重厚な扉を押し開けると、出迎えてくれたのはいつものマッチョなマスターではなかった。
「沙智! 今ちょうど電話してみようかと思ってたんだー」
「真奈! びっくりー。すごい偶然!」
思わぬタイミングでの親友の出現に沙智の気分が一気に上がる。そのまま人の目も気にせず彼女に抱きついて、沙智はその長い髪に顔をうずめた。
「なに? どうしたのー? 甘えんぼ。暑い。離れて。即刻」
どんな時でも優しくドライに突き放す彼女の遠慮のなさに沙智は心底ほっとして笑いながら彼女から離れる。
「沙智ちゃん、久しぶり。元気?」
「わ。康正くん。久しぶり」
彼女の後ろからひょこりと顔を出した浅黒い肌のイケメンに、沙智の背が知らずと伸びた。今の行動を見られていたのが途端に恥ずかしくなる。
「デート?」
二人の顔を見比べて尋ねると、親友がぶんぶんと手を振った。
「違う違う。ただ飲んでただけ。どうせ飲むなら沙智も一緒のほうが楽しいから電話しようと思ってたとこなの」
少し前から同棲を始めたこの二人は今が一番ラブラブな時期のはずだ。しかし彼女は「もうこの顔見飽きちゃって」と笑いながら沙智をカウンター席へと誘導した。
いいなあ。幸せそう。
軽口を言いつつもお互いを見る目が優しい。そのことに嬉しさと羨ましさとが混ざった感情が沙智の胸を行き来する。
いつもの通りカウンター席を陣取ると親友カップルが沙智の両脇を固める。
この席順はおかしくない?
なんの躊躇いもなく示し合わせたように沙智の両隣りに座った彼らに沙智が首を捻っているとカウンターの向こうから髭マッチョが三つのビールジョッキを手に現れた。
「いらっしゃーい」
ドン、と沙智たち三人の前にジョッキを置いたマスターは、沙智に向かって茶目っ気たっぷりにウィンクを飛ばす。
「ありがとう、禅ちゃん。まるで私が来るのがわかってたみたいなタイミング」
「あら、あたしってば実は魔法が使えるのよ。知らなかった?」
すました顔でそう言いおいて別のお客さんのほうへ悠々と歩いていくマスターの背中に沙智は「あはは」と笑い声を投げかけた。
「で、結局のところどうなってるの? 今どこに落ち着いてるのよ? 実家?」
ああ、そうか。前に会った時からその後を話していなかった。
ビールを一口すするなり口早に質問を飛ばす左隣の親友は本気で沙智を心配そうに見つめている。
心配させるだけさせて放っておくなんて悪いことをしてしまったと反省し、どこから話そうかと頭の中を整理する。
「結論を言うと、この前言ってた同僚の家で正式に同居させてもらうことになったの」
「……マジ?」
「マジ」
力強くうなずくと、口をパクパクさせた親友が沙智を通り越して彼氏のほうへ視線をやる。
「この前真奈から話聞いて俺も沙智ちゃんの事情知っちゃってるんだけど、その……。そんなに困ってるなら遠慮しないでうちに来てもらっても良かったんだよ。俺は実家からでも通勤できるし」
言葉を選びながらそう言った彼氏が真剣な顔で沙智を見つめた。親友の優しさもその彼氏の気遣いも今の沙智の心に深く染みわたる。
「ありがとう。でも困った末の仕方ない選択というよりはお互いに利害が一致して決まったことなの。それに……」
汗ばんだビールジョッキが手の中で冷たい。垂れてきた雫を手で拭いながら沙智の頭に同居を決めた夜の哲のほっとしたような表情が浮かんだ。
「私がそうしたいって、思ったから……」
沙智が彼氏に振られてから何の得にもならないのにずっと支えてくれた哲。だから少しでも彼の役に立てたら。今度は自分が支えることができたら。
会社では余裕の笑みしか見せない彼の、いろいろな表情をこの数週間で見てきた。
スマートで大人で人気者で自分とは住む世界が違うと思っていた彼が、実は少し意地悪で誰よりも優しくて、そして心のうちに昏い葛藤を抱えているなんて想像もしなかった。
『もう、駄目なんだ……』
電話口の相手にそう言った哲は、今にも崩れ落ちそうなほど弱々しく儚かった。
昨日彼は誰と電話をしていたのだろう。誰かのためにあんな切ない顔をした哲なんて本当は見たくなかった。
「好きになったの?」
耳元で囁くように尋ねられ親友を振り返る。
「その同僚のこと」
いつものからかうような口調ではなく思いがけず真剣な眼差し。一瞬その視線に呑まれて沙智の喉の奥が鳴った。
「ううん。そういうんじゃなくって、なんか気の置けない仲になったというか。どちらかというと同性の友達みたいな感覚」
逃げるように視線をそらしてビールジョッキを持ち上げる。喉を通る苦い味がキュウっと喉の奥を締め付ける。
「そう? まあ沙智がそれでいいならいいけど」
二人が互いに目配せしあっている気配を感じながら、沙智は俄かに居心地の悪くなったその席で座りなおすように体勢をずらした。
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