第42話 合縁泣縁
夜の街を手ぶらでずんずんと歩く。
陽気に歌うサラリーマンに、お洒落に気合の入った若い女性。道行く人々に声をかける派手なお兄ちゃんに、週末には似合わない落ち込み顔で歩く沙智。
ああ、やってしまった。
関わるつもりなんてなかった。本来なら哲とあの男のことなど、沙智が首を突っ込んでいい話ではないはずだ。
それなのにあんな感情のままに怒鳴りつけるなんて……。
そして何より、あのバーに一緒に連れだって行った彼も、自分のバッグも、何もかも置いて出てきてしまったことを後悔している。
スマホも財布もバッグの中。このままでは置いてきた彼に詫びの連絡を入れることもできないどころか、家に帰りつくことさえ困難だ。
何やってんの、私。ありえない……。
立ち止まって座り込みたい気分でため息を吐く。
マスターも、あのバーにいた人たちも、様々な人に迷惑をかけるだけかけて逃げ出した。社会人として完全に失格だ。
「石田さん」
背後から声をかけられてゆるゆると振り向く。と、今日のデート相手が額に汗をかきながら沙智のバッグを片手に立っていた。
「賢木さん……」
すっかり乾いた涙の跡をごしごしと手で拭う。きっと今は人様に見せるには見苦しい顔だ。
「ごめんなさい。突然勝手なことして……。ご迷惑をおかけしました」
深々と頭を下げると、通りすがりの男性が驚いたように身を揺らしたのが視界の隅に入る。
「いえ、そんな。頭を上げてください」
言われてしばらくしてからゆっくりと頭を上げると困った顔で笑う彼。
「気づいたら石田さんが知らない男性と言い合いをしていたので多少驚きはしましたが……」
「すみません」
反射的にまた頭を下げると「あ、いえ、そうじゃなくて」と彼が慌てたように一歩近づく。
「あれは、石田さんにとって大切なことだったんですよね?」
そう言ってまた困ったように笑う彼に、沙智の目が釘付けになる。
優しい、なんて優しい人なんだろう。
「そう、そうです……。私の、大切な友人の……」
大切な……。
言いかけてそれ以上言葉にできず、沙智の瞳から乾いたはずの涙がまた零れた。
そっと大きな手で頬を拭われ、見上げると彼が優しい微笑みで沙智を見下ろす。
ああ、この人に愛される人は幸せだ。
この人を愛することができる人は幸せだ。
次々と零れる涙に視界がゆがむ。
「私、好きな人が、いるんです」
もうこれ以上は嘘を付けない。
喉の奥からせり上がりそうになる嗚咽を無理やりに抑え込んで、なんとか意味のある言葉をひねり出す。
彼は沙智の頬に手をやったまま沙智を見下ろしている。
「絶対に、かなわないって、わかってて、だから向き合えなくて……」
涙で霞んだ視界で、それでも一生懸命相手を見ようと目を細める。
「それが辛くて、気持ちを誤魔化して、賢木さんに逃げようとしました」
震える唇を噛みしめて、泣き声を上げることだけは何とか耐える。
「ごめんなさい。こんな気持ちであなたとはお付き合いできません」
こんなに優しい人をこれ以上欺くことはできない。
自分の気持ちに向き合わないまま、この想いを押し隠すこともできない。
もう一度深々と頭を下げる。
こんな勝手な自分を気にかけてくれた彼に。ずっと目を合わせないようにしてきた自分自身に。
止まらない涙が沙智の足元を濡らしていく。
「……俺もです」
しばらくの沈黙の後、彼が静かに口にした言葉に沙智はゆっくり上体を起こした。彼は尻込みするように沙智から視線を外す。
「俺も、好きな人がいます……」
彼の穏やかだった顔が、今まで見たことのない苦痛にゆがむ。
「好きで、好きで、でも俺の言葉はもう相手には届かないかもしれないから、それが辛すぎて……」
彼の瞳にうっすらと涙が溜まる。
「だから俺も、石田さんに逃げようとしました」
そうして自嘲するように笑った彼に、沙智は目を伏せた。
ああ、だからか。
ようやく彼の今までの曖昧だった振る舞いが腑に落ちる。
「私たち、似た者同士だったんですね」
きっと状況も立場もまったく違うけれど。
もう一度彼を見上げて、涙の乾ききらない頬を無理矢理に上げる。
沙智の笑顔を受けて、彼も優しく微笑んだ。
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言葉少なに最寄りの駅まで一緒に歩く。
金曜の夜の駅には遅い時間になっても待ち合わせをしているらしい人々の姿が目立つ。それと同時にカップルの数も平日の夜より多い。
きっと並んで歩く自分たちもそんな風に見られているのだろう。
「石田さんのおかげで自分の気持ちともう一度向き合おうと思えました」
沿線の違う彼と改札前で別れるとき、彼はいつもの穏やかな微笑みで沙智を見た。
「いいえ。私の方こそ振り回してしまってすみませんでした」
改めて謝ると、彼は「お互い様なのでもう謝るのはなしです」と呆れたように笑った。
「それでは、お元気で」
差し出された彼の手を力強く握る。
「賢木さんも」
そうしてお互いに背を向ける。
もう振り返ることはないだろう。そう思って一歩踏み出したところで「石田さん」と呼び止められ、早々に沙智は振り返った。
「あなたの芯の強さに惹かれていたというのは嘘ではありません。出逢ってくれてありがとうございました」
それだけ言って一礼し、人混みの向こうに消えていく彼の背が、また溢れた涙に霞んで見えなくなる。
私こそ、あなたのその優しさに、今どれだけ救われていることか。
もう見えなくなった彼の背に再び深々と頭を下げると、沙智は今度こそ振り返ることなくその場を後にした。
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