第43話 月路の闇

 口を大きく開けて生ぬるい空気を胸いっぱいに吸い込み、吐き出す。


 ドアの前で何度か深呼吸を繰り返し、いよいよ覚悟を決めてドアを開く。


 しかしドアを開け放った先に広がる暗闇に、沙智は出鼻をくじかれた思いで視線を落とした。玄関に同居人の靴はない。


 まだ帰ってないんだ。


 そういえばバーで哲の元彼も、何度電話してもつかまらないと言っていた。


 金曜夜。接待か何かなのかもしれない。


 ふらふらとリビングへ足を運び、常夜灯だけが灯るその部屋でぞんざいにバッグを下ろす。


 日中、西日が入っていただろうこの部屋はむせ返るほどに暑い。


 窓ガラスにかかっていたブラインドを開けると、宝石箱のようにキラキラした夜景が広がった。


 空に浮かぶ月はこの夜景の豪奢さに自らを恥じ入るよう、ひっそりと隠れるように雲の向こうから少しだけ顔を出している。


 明滅する目の前の光景に目をやりながら、細く長く息を吐く。


 自分の気持ちに気づいてしまったこの勢いで打ち明けてしまおうと意気込んで帰ってきたのに、今は肩透かしを食らった気分だ。


 一度冷静になってしまうと今晩起こったあれやこれやが思い返され、先ほどまで感じていた高揚感がどんどんと失われていく。


『あいつね、昔っから可哀そうな女をほっとけないんだ。気のない女に優しくしては勘違いされて、後から大変なんだよね』


 バーで聞いた耳障りな声がよみがえってきたのに、沙智は顔をしかめた。


 わかっている。


 まるで焼き印のように沙智の脳の奥に刻み込まれたその声に答えるように心の中でつぶやく。


『なんだ。何も知らないんじゃん。一緒に住んでるわりに信用されてないんだ?』


 そう、知らない。けれど二人だけで培ってきた信頼は確実にあるはずだ。


 嘲笑するようなあの声に歯を食いしばり、眼前の絶景を睨みつける。


『一緒に住み始めたのだって俺がいなくなって寂しかったところにちょうどあんたっていう同情相手が現れただけだろ?』


 つまりお前は身代わりだ。


 言外に含まれた言葉に喉の奥がきゅっと鳴る。


『あんただってわかってるだろ? あいつが本当は誰を求めてるのかもさ』


 哲が、求めている相手……。


 わかっている。それは確実に沙智ではない。


 目の前がぐらぐらと揺れて膝に力が入らない。


 わかっている。


 沙智がいくら想ったところで、彼にとって沙智は今まで優しくしてきたその他大勢の中の一人だ。


 わかっている。


 この一方的な思いを彼に告げたところで、優しい彼を困惑させてしまうだけだ。


 でも、気づいてしまった。認めてしまった。


 自分の気持ちを。自分の想いを。


 だからこのまま知らないふりをして暮らしていくことなんてできない。


 玄関のドアが開かれる音がして、沙智は窓の外にやっていた視線をそちらへ向ける。


 ガタガタと落ち着きのない音と共に廊下につけられた明かりでリビングのドアの磨りガラスに人影が映る。


「沙智……、うわっ暑っ」


 勢いよくドアを開け放ってリビングに入ってくるなり沙智の名を呼んだ彼の顔は、廊下からの逆光でよく見えない。


「電気もエアコンも付けずに何やって……」


「好き」


 唐突な沙智の告白に、手探りで電気のスイッチを押そうとしていた哲の動きが止まる。


「哲のことが好き」


 無言のままこちらに視線を向けた彼をまっすぐ見て、もう一度はっきりと口にする。


 彼は今、どんな顔をしているのだろう。


 困った顔。混乱した顔。もしかしたら怒った顔かもしれない。


 相変わらず逆光になって見えない彼の顔を見つめたまま沙智は薄く笑った。


「ごめん。絶対に駄目だってわかってたのに、好きになって」


 今夜何度目になるだろう涙が沙智の頬を静かに濡らす。


「自分の気持ちに気づいたら、もう隠しておけなくなっちゃった」


 だから、と少しだけ彼から視線をそらしてまた、今度は自嘲的に笑う。


「出ていくね」


 もう、一緒にいるのは辛いから。


 これ以上、彼の優しさに期待してしまう前に。


 身勝手だとわかってはいるけれど。


 放り出していたバッグを拾い上げて、一直線に玄関を目指す。


「自分勝手でごめんね。正式に引っ越すまではちゃんと家賃振り込むから」


 通り過ぎざま、なるべく明るく声をかける。


 彼に後悔なんてしてほしくない。責任なんて感じてほしくない。


 これは全部、沙智のエゴ。


 それでも優しい彼は後悔するのだろう。自分を責めるのだろう。


 だけど最後はせめて笑顔で。


「さようなら」


 今できる精一杯の笑顔で。走り出したくなる情動を抑えて。


 ようやく見えた彼の顔はまるで感情が抜け落ちたかのような無表情。呆然と沙智を見下ろしている。


 溢れだす涙を隠すようにすぐ彼から顔をそむける。


 これで終わり。本当に最後。


 私たちの関係はただの同僚に戻るのだ。


 鈍く痛む胸を抱えたまま一歩を踏み出すと、後ろから遠慮がちに腕を掴まれる。


 振り向くと、まだ呆然としたままの哲の顔。


「違う……」


 どこか焦点の合わない目をした哲がつぶやく。


 何が違うのか、と問う前に彼の沙智をつかむ手の力がほんの少しだけ強まった。


「自分勝手なのは、俺だ……」


 唇を震わせてそう言った彼が、ようやっと感情を取り戻したかのように顔をゆがませて沙智から目をそらす。


「タカに捨てられて寂しくて、不安定な沙智に優しくするふりして自分の中の穴を埋めようと……」


 静かに、まるで自分の感情をすべて吐き出すようにそう言った彼の目から一筋涙が落ちる。


「姉さんみたいに、いなくならない誰かが欲しくて……。沙智が、俺に依存すればいいと思って」


 流れ落ちる涙が彼のスーツを濡らしていく。それにつられるように沙智の瞳からもまた涙が零れ落ちる。


「こんな、こんなこと……言える立場じゃないって、わかってる。わかってるけど、でも……」


 嗚咽交じりの哲の手の力がよりいっそう強まって、とうとう沙智をその胸に引き寄せる。


「行かないでくれ。俺を置いていかないで……」


 哲の胸に抱かれたまま耳元で囁かれたその言葉に沙智は目を見開いて歯を食いしばる。


 ずるい。


 そんなのずるい。


 耳元でむせび泣く彼が、逃すまいとするかのように沙智を抱く力を強める。


 でも、それでも……。


 一瞬だけ躊躇って、沙智は哲の背中に腕を回して力を込めた。


 彼の背中越し、窓ガラスの向こうで先ほどまで雲に隠れていた月がこちらを覗き込むように顔を出すのが見える。


 わかっている。これがどんなに馬鹿げた選択か。


 言い訳するようにその月を見つめ、彼の背中に回した手をぎゅっとこぶしの形に握る。


 哲が沙智の頬に手を当てる。激情に流され体温の上がった彼の手が、火照った沙智の頬をさらに熱くさせる。


 わかっている。彼がどんなにずるい男か。


 涙に濡れた哲の顔がゆっくりと沙智の顔に近づく。


 彼の長いまつ毛の先に留まった涙の雫が、まるで月の光を受けたかのようにキラキラと輝くのがくっきりと見える。


 でも、たとえほんの一瞬だったとしても……。


 それ以上考えることを放棄して、沙智はただ静かに瞳を閉じた。

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