第44話 耳が塞ぐ
ぱちりと唐突に覚醒して沙智は何度か目を瞬かせた。
見慣れない青いベッドシーツに首をかしげながら少しだけ起き上がり、自分が一糸まとわぬ姿であることに驚く。
ああ、そうだ。
横で静かに寝息を立てる哲を見て昨夜の情動的な一連の出来事を思い出し、沙智は腫れぼったい自分の目をこすった。
まだ起きる気配のない彼の顔を覗き込む。
昂った感情のまま唇を重ね、流されるように二人肌を合わせた。そのまま泣き疲れて眠りに落ちたのだ。
なんだかここ数年分の涙を一気に流しきった気がする。
ひげが薄く生えた彼の頬を優しく撫でて、情とも憂いともつかない気持ちで苦笑する。
こんな形で私を繋ぎ留めるずるい男。
ただ優しいだけだと妄信していた彼のその卑怯さに心底呆れ、それでももう彼を置いていくことなんてできない。
「好き」
彼の耳元で、彼を起こさないようにそっと囁く。
「好きよ」
誰よりも優しくて弱いあなたが。
たとえあなたが私のことを好きでなくても。
それでももう決めたから。
あなたが自分の弱さと卑怯さを曝け出したあの時に。
あなたが私を捨てるその時まで、私はあなたの傍にいると。
たとえ、ただの一瞬でも彼が自分を求めてくれたという事実に覚える一抹の胸の痛みとそれ以上の充足感。
もう一度、彼の頬を優しく撫でてベッドから這い出る。
脱ぎ捨てた服を拾い集めながらリビングへ出ると、沙智は喉の渇きを潤すためにキッチンへ向かった。
涙を流しすぎて体がカラカラだ。
コップいっぱいの水を飲みほしながら時計に目をやり、すでに昼前だとやっと気づく。
何も予定を入れていなくて良かった。
思いながらコップを片手にリビングの入り口近くに放り出されたままの自分のバッグを拾い上げる。
中からスマホを取り出すと、いくつもの着信履歴。そのすべてが同一人物からだと気づいて沙智は重く深いため息をついた。
どうしようかと考えていたところで手の中のスマホが震えだし、沙智は咄嗟に通話ボタンを押す。
あ、しまった。
鼻の頭に皺を寄せて、スマホを渋々耳元にあてる。
『もしもし? もしもし? 沙智? やっと出た! あんた、まさかこんな時間まで寝てたの? 信じられないわね』
途端にやかましく響くその声に沙智は下唇を噛んでリビングから廊下へ移り、リビングのドアを閉めた。
「何か用?」
不機嫌を隠さずそう尋ねると、電話口の相手が『まあ!』と大げさに憤慨する。
『あんたね、母親に向かってそんな言い方ないじゃない。全然連絡してこないんだもの。心配してたのよ。元気なの?』
「うん、元気。そっちは? 変わりない?」
イライラと足踏みして自分を落ち着かせ、洗面所へ向かう。
『亜寿沙が三人目妊娠したのよ。悪阻が酷くてしばらくこっちに帰ってきてるの。あんたもたまには帰ってきなさいよ』
母親の口から出た妹の名前に沙智の眉がピクリと上がる。
「そう。で、結局なんの用なの?」
洗面所の鏡に映る自分の顔が恐ろしく不細工で、沙智はうんざりしながら蛇口をひねった。
『あ、そうそう。あんたの会社からあんた宛に暑中お見舞いが届いたのよ。今までこんなの来たことなかったからびっくりしちゃったわ』
顔をじゃぶじゃぶ洗いながらスピーカーから聞こえてきた声に、ああ、と低く唸る。
そういえば会社に住所変更届を出したとき、さすがに哲と同じ住所にすることに抵抗を覚えて実家の住所を届けたのだった。
「適当に置いといてよ。今度帰るときに受け取るから」
『あんた、そんなこと言って全然帰ってこないじゃない。それに恭平くんとはどうなってるの? あんたたち結構長いでしょ。そろそろ結婚とかって話が出てもいいんじゃないの?』
ああ、もう。まただ。
半分白目になりながらタオルで顔を拭い、スピーカーフォンを切ってもう一度スマホを耳によせる。
「恭平とは別れたよ」
ため息交じりにそう告げると電話の向こうで母親が息をのむのが分かった。
『別れたって、ええ? あんた何考えてるのよ! あんた来年何歳になると思ってるの? もう三十も手前にして彼氏と別れるなんて……! どうせあんたがまた可愛くないことでも言って恭平くん怒らせたんでしょ! 今からでもいいから謝ってきなさいよ! もう、ほんとに何考えてるのよ! どうするのよ、結婚!』
次の瞬間、怒涛のように押し寄せた母親の言葉を沙智は電話を耳から離してやり過ごす。
「うるさいなあ。用がそれだけならもう切るよ」
母親がまだ何かを続けようとするのをそう遮る。
『待ちなさい! あんた今日帰ってきなさい! 電話じゃ埒があかないわ!』
通話終了ボタンを押そうとしたところで母親がそう怒鳴ったのを聞いて沙智はもう隠すことなく盛大にため息をついた。
「もういいよ。私の結婚についてなんてお母さんと話したとこでどうにもならないんだから」
イライラが募りすぎて沙智もついついトゲトゲしく応じてしまう。
『別にそれだけじゃないわよ。あんた全然帰ってこないんだもの。去年のお正月に一日帰ってきて以来でしょ? たまには顔出しなさいよ。親不孝者なんだから』
母親が哀れっぽく涙声を出すのにがしがしと頭をかいて目を細める。
「仕送りは毎月してるじゃん」
『お金の問題じゃないわよ。顔が見たいって言ってるの。どうせ今日だって家でだらだらしてるだけでしょ。いらっしゃい。あんたの好きなもの作ってあげるから』
優しくそう諭され、沙智はとうとう観念して「わかった」と答えて通話を切った。
「ああ、もうめんどくさいなー」
つぶやいてその場で座り込み、掃除の行き届いた床をぼーっと眺める。
母親なりに沙智のことを心配してくれているのはわかるのだが、沙智は昔からどうにも母親と馬が合わない。
同じ言語を話しているはずなのに言葉が通じない。だから母親と話すのが億劫で、就職で家を出た後は実家から足が遠のいている。
「親不孝者、ね。そうね、本当だわ」
囁いて立ち上がると沙智は身支度するべくまた洗面所の鏡と向き合った。
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