第41話 熱風を飲む
人々がざわめくバーの店内で、周りの喧騒には目もくれずに沙智はただ一点を見つめる。
週末の始まりに浮かれる人々の中には沙智たちのことを気にする客などいない。
今この人、哲って言ったよね?
カウンター席に座るスーツ姿の男性を見つめながら、数年前にこのバーで哲と偶然居合わせたときのことを必死に記憶の底から呼び起こす。
哲の隣にいたのはこの人だったかな?
しかし覚えているのは哲の青ざめた顔だけ。隣に立つ男性の姿形は靄がかかったように思い出せない。
と、カウンターの男性が沙智に向かってにっこりと人懐っこい笑顔を向けた。
途端に自分が相手を無遠慮に凝視していたことに気づいて沙智は慌てて相手に目礼する。
「おねえさん、一緒に飲む?」
躊躇いながらも自分の席に戻ろうと沙智が踵を返した瞬間、耳元で響く低い声。
「え? あ……」
驚いて振り向くと、いつの間に距離を詰めていたのか彼は目と鼻の先だ。
「いえ、あの、連れがいるので……」
「ちょっと、タカ! うちの大切なお客さんにちょっかいかけないでよ!」
カウンターの向こうからマスターの慌てたようなきつい声が飛んでくる。
彼はマスターの方に一瞬だけ目を向けると、何か面白いものを見つけたようにその鋭い目を光らせた。
「だって禅さんと話してても説教ばっかでつまんないからさ。何回電話しても哲もつかまんないし」
肩をすくめた彼が再び口にした名前に、思わず二度目の無遠慮な視線を送る。
「哲って、菅原哲?」
彼の視線が沙智に向けられたところで、それが自分の口から出た言葉だと気づく。
「……おねえさん、哲のこと知ってるの?」
彼の目がすっと細められ、沙智は居心地悪く喉の奥で唾を飲み込んだ。
「どういう知り合い?」
尋ねられて少しだけ躊躇い、そして意を決して口を開く。
「今、一緒に住んでます」
まっすぐに彼の目を見てそう答えると彼は一瞬だけ目を見張り、そして面白そうに口の端を上げた。
「ああ、そう。同居人ってあんた……。はは。そうか」
馬鹿にしたような目つきで口に手を当てて笑いをかみ殺すような動作をした彼は、まるで値踏みでもするかのように沙智のことを足の先から頭の天辺まで見回す。それに再び微かないら立ちを覚え、沙智は顎を上げた。
「あいつ、また悪い癖出てんなー」
悪い癖?
そのつぶやきに眉根を寄せると、彼は沙智に意地悪な笑みを向けた。
「あいつね、昔っから可哀そうな女をほっとけないんだ。気のない女に優しくしては勘違いされて、後から大変なんだよね」
だから勘違いするな。暗にそう言われたのがわかって沙智の頬にカッと熱が上った。
そんなこと、言われなくたってわかっている。哲が沙智を見ていないことなんて、痛いほどわかっている。
「私、……別に彼とどうこうなろうなんて思ってません。彼の事情はある程度知ってるので」
半分強がりで吐き出した言葉に、目の前の男は「へえ」っと口をゆがめた。
「事情、ね……。どこまで知ってんの? 俺らのことと? あいつの姉さんのことも?」
「お姉さん……?」
その意外な言葉に沙智は険しい顔のまま瞳を揺らす。
お兄さんと妹がいることは聞いているけど、お姉さんの話なんて聞いていない。
ふと沙智の頭に一枚の写真がよぎる。
あの写真……。
哲のアルバムに無造作に挟まれていた、中学生ぐらいの哲と哲によく似た制服姿の女の子が映った写真。
哲がまるで沙智から隠すかのように持って行ったあの写真。
きっと沙智には触れられたくない、彼の過去。
「なんだ。何も知らないんじゃん。一緒に住んでるわりに信用されてないんだ?」
目の前の彼がふん、と鼻を鳴らしたのに何も言い返せないことが悔しくて沙智は唇を噛んだ。
「ま、なんにせよ哲はあんたのことなんて何とも思ってないよ。一緒に住み始めたのだって俺がいなくなって寂しかったところに、ちょうどあんたっていう同情相手が現れただけだろ?」
実際にその通りなのだろう。
「そんなこと、わかってます。私は、別に……。哲とはただの良い友人なだけで……」
そう、哲との間に培われたのは友情だ。決して身を焦がすような恋心ではない。
言い訳のようにそうつぶやくと、目の前の相手は心底おかしそうに笑った。
「良い友人、ね……。ある程度は事情知ってるって言ってたよな? じゃあさ、あんただってわかってるだろ? 何が哲のためなのか、あいつが本当は誰を求めてるのかもさ」
哲が求めている人……。
初めて二人で飲んだ夜の哲の声が脳裏によみがえる。
『ここが俺の、俺たちの行き着く場所だと思ってた』
寂しくて泣きだしそうな彼の顔。
切なくて心が張り裂けそうな彼の声。
わかっている。哲が求めているのは私じゃない。
哲が求めているのは……。
目の前の相手の姿が、ジワリと歪んで見える。
でも、それでも……。
「そんな哲を裏切ったのは、あなたじゃない」
あんなに優しい人を。
震える声で、震える体で、それでも相手を見据えてはっきりと口を開く。
「確かにあなたの言う通り、私は哲のこと何も知らないかもしれない。あなたほど信用もされてないかもしれない。でも、だからって、あなたが哲のことをよく知っているからって、それが哲を傷つけていい理由になんてならない」
どれだけ傷ついたか。どれだけ辛かったか。
それでも目の前のこの男に会いたいと願った哲の愛情深さを思い、沙智の目から涙が溢れる。
「あなたみたいな自分勝手な人間に、優しいあの人を傷つける資格なんてない! そんなの、私が絶対に許さない!」
店内に鳴り響く音楽以外、周りに音が消えている。
いつの間にか周囲の人間に注目されていることに気づいて、沙智は肩で息をしながら周りを見回した。
好奇の目を向けてくる人々をひと睨みし、握っていたこぶしの力を強める。
もう一度だけ目の前の男に視線をくれてやり、沙智はバーの入口へ向かって歩き出した。
「沙智ちゃん……」
マスターの声を背中に受けながら勢いよくドアを開けると、湿気で不快な熱い空気が沙智の頬を撫でた。
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