第39話 暗所の羊
鍵のかかったドアを開けると目の前に広がる廊下は薄暗い。
リビングのドアの向こうから常夜灯の明かりだけが漏れ出ているのを見て、哲はまだ帰っていないのだろうかと視線を落とす。足元には几帳面に揃えられた革靴が一足。
帰ってる。もう寝たのかな。
倦怠感の詰まった重い体を引きずって自分に割り当てられた部屋へ入ると、熱気の篭ったそこはサウナ状態だ。週末に来るという冷房の修理まで、とりあえずここでは着替えなど最低限のことだけ済ますことにしている。
素早く着替え、洗面所で化粧を落とすと沙智はスマホを片手にすぐさまリビングへと避難した。
ひんやりと冷えて明かりも落とされた誰もいないリビングの窓ガラスからは、この街の夜景が一望できる。この数週間でもう見慣れたはずのその光景に、今夜はガラスに張り付く水滴が加わってより一層幻想的だ。
電気もつけないまましばらくそれを眺め、ふと我に返って暗闇の中、音を立てないようにキッチンへと移動する。
水を一杯だけ口にして、そっとシンクにコップを置くと沙智は自分の手を見つめた。
ほんの一時間前まで男の人に握られていた右手。その感触を思い出すように手を握ったり開いたりしてみる。
手を握ったといえば、一泊旅行の時も哲とずっと握ってたな。
そんなことを思い出して微笑し、でもあの時と今夜とではその意味が全く異なることも分かっている。
あんなに真剣に交際を申し込まれたのはいつ以来だろうか。
好きだ、なんて今夜は一言も言われなかったけれど。
ふうっと息を吐いてリビングのソファへ移動する。寝転がって暗い天井を見上げる。
『返事はすぐでなくても大丈夫です。さっきも言ったように俺のことをもう少し知ってから答えを聞かせてもらえますか? それまでは見極め期間ということで、また二人で会っていただけたら嬉しいです』
ちゃんとした職があって、気遣いができて、誠実そうな男性。彼の後輩の話だと女性関係も決して派手ではない。
これ以上ないぐらいの素敵な相手だ。沙智のこの先の人生でこんなチャンスなんてもう二度と巡ってこないだろうと言えるぐらいの。
どこかはにかんだように、それでも真剣な面持ちで見つめてきた彼。その目の前で、自分はいったい誰のことを考えていただろうか。
ちらりとリビングの奥、この家の主の部屋の方を見る。木製のドアの向こうで彼が今何をしているのか、どんな表情をしているのか沙智にはわからない。
もしも、もしも今、沙智に彼氏ができたらこの関係はどうなるのだろう。変わらないのか、ぎこちなくなるのか、むしろすっきりするのか。
哲はどう反応するんだろう……。
いや、きっと彼は喜んでくれる。沙智の将来を邪魔する気はない、と同居が決まった夜に哲ははっきり言っていた。
だから、きっと……。でも、そしたら哲はどうなるの?
元彼に裏切られ、このマンションに一人取り残された哲。
『ここが俺の、俺たちの行き着く場所だと思ってた』
二人でこの部屋で夜景を見た夜、寂しそうにそう言っていた哲。沙智が離れたら、彼はまた一人ぼっちになってしまわないだろうか。
すると、突然壁の向こうでガタンという物音が聞こえて沙智はビクリと体を揺らした。
起きてるのかな。
驚きで鼓動が早くなった自分の胸に手を当てていると、ドアの向こうから哲の低い声が聞こえてくる。
また、電話してる……?
何かに惹かれるように起き上がると、そっとソファから降りる。
こんなの、駄目だ。
そう思いながらも、沙智はそろそろと目の先にある木製のドアに近づいた。
「……がう、そうじゃない……って言ってるだろ……」
ドアの向こうから漏れ聞こえる哲の切羽詰まった声がだんだんと大きくなっていく。
息を殺して聞き耳を立てながらも、物音は立てないように細心の注意を払う。
「タカのことを嫌いになったわけじゃないんだ」
彼の部屋ぎりぎりまで近づいたとき聞こえてきた言葉に沙智の体がフリーズした。
ひやりとしたものが沙智の背中を撫でていく。
「でももう同居人がいるんだ。だから一緒には住めない。わかってくれ」
ため息交じりの彼の声がひどく疲れたように沙智の耳に響く。
別れた後もずっと彼を待っていた哲。
裏切られても彼を愛していた哲。
知っていた。哲が元彼に会いたがっていたことも、そのためにあのバーに通っていたことも。
ゆっくりと彼の部屋から遠ざかる。
ソファの上にもう一度寝転がって暗い天井を見上げる。常夜灯の光が薄く反射した天井には濃く暗い影が浮いている。
あれ? 私、もしかして哲の幸せの邪魔になってる?
自分がいなければ、もしかしたら哲は元彼とすんなり復縁できるのではないだろうか。
ずん、と目の前に突き付けられた現実に、胸が重く息が苦しい。
天井に暗く落ちた影が沙智の方へとその手を伸ばす。
自分から同居に誘った手前、哲はきっと沙智に出て行けなんて言えない。いや、それでなくとも哲は優しいから……。
目の前まで伸びてきた暗い影が、時に窓からの光を受けてうねりながら慰めるように沙智の体を撫でていく。
私から、出ていかなくちゃ。
静かに明滅する濃く暗い影を見つめながら心にそう決めて、沙智はゆっくりと瞼を閉じる。
瞼の隙間から流れ出た何かに気づかないふりをしながら。
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