第9話 足元から彼が立つ
沙智はそんなにお酒を飲むほうではない。別に弱いというわけではない。嫌いというわけでもない。
ただ毎日のように飲みたいとは思わないし、記憶がなくなったり前後不覚になるまで飲んだこともない。
お金もかかるし、酔って失敗をした人を見たりするとなんで自制ができないんだろうと呆れてしまう。
元彼がお酒を飲めない人だったからその影響もあったのだろう。
「でもお酒に頼って嫌なこと忘れようとする人の気持ちが今はよくわかるわ」
どん、とビールグラスをカウンターに置いてそう言うと、カウンター向こうの髭面の男が笑った。
「現実ってあまくないものねー。そりゃ忘れたくなるようなこともあるわよ。今日はもう飲んで忘れちゃいなさい。おかわりは? キツめのいっとく?」
「生、もう一杯」
昨日と同じバー、昨日と同じ席。昨日と違うのは隣に親友が座っていないこと。
それでもマスターはいつも通り迎えてくれて髭面とその図体に似合わぬ優しい笑顔をくれた。
「ああ、もう嫌になっちゃう。どこかに逃げたいな」
つぶやくと、生ビールを持ってきたマスターが沙智の頭をなでてくれる。
「沙智ちゃん頑張り屋だもの。少しぐらい逃げてもいいと思うわ。休暇取って旅行でもしてみたら?」
旅行。それもいいかもしれない。そう思い立ったら俄然その気になってくる。スマホのスケジュール帳を開いて期日が迫っている仕事はどれだったかとチェックする。
「まずあの仕事を終わらせて、いや、でもそれやってるうちにC社の件も……、あ、企画部からあれも上がってて……ああ、駄目だ。しばらく無理。休めない」
「沙智ちゃんも大概仕事人間よね」
マスターが呆れたような感心したような声を出した。
「じゃあ、あれね。こういうときは新しい恋! 失恋の痛みを癒しながらトキメキでストレス発散! 美肌効果!」
「新しい恋かー」
少しの間考えてみたが、沙智はあまり恋愛体質ではない。さらに恋人と友人からの裏切りで今は恋愛に前向きになれそうにない。
「うーん。今はいいかな。七年も一緒にいた彼氏に振られたアラサーなんて誰も相手しないでしょ」
「ま! 卑屈! 真奈がいたら怒られてるわよ!」
言われて、まったくだわ、と薄く笑う。
「じゃあ、あの人は? 昨日言ってた家に泊めてくれてる同僚。二人でいて良い感じになったりしないの?」
言われてびくりと肩を揺らし、沙智はかぶりを振った。
「ないない。あの人はそういうんじゃないってば」
言いながら昼の苦い思い出が蘇る。
結局彼からのメッセージには自分も遅くなるとだけ返信しておいた。とにかく会社で彼と会うことを避けたかったのだ。
「なんで? 完全なお友達ってこと? タイプじゃないの?」
「そういうわけじゃないけど……」
重ねて尋ねられ、もごもごしているとマスターは何かを思いついたように顔を寄せてきた。
「もしかして、その人ゲイ?」
さすがに鋭い。沙智が曖昧にうなずくとマスターはグラスを拭く手を止めてため息をついた。
「それはやめておいた方がいいわね。恋するだけ不毛よ」
そうね。そうよね。納得しかけ、はたと気づく。
「だから私には最初からその気はないってば」
顔をしかめて抗議するとマスターはぺろりと舌を出した。
「そう? 弱ってるところ優しくされるとグラグラきちゃわない?」
優しくされると……。
「……禅ちゃん、私、そんなに若くないよ」
苦笑して答えると、マスターも同じように苦く笑って肩をすくめた。
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マスターが話し相手になってくれるとはいうものの、さすがに沙智一人につきっきりになるわけにもいかない。
どうしても一人で取り残される時間が多く、しかも今日は周りに見知った常連客もいない。
それでも誰かに話を聞いてもらいたい気分で周囲を見回すと、沙智と同じように手持ち無沙汰に飲んでいるカウンター客が目に入った。
いつもなら見知らぬ人になど絶対に話しかけない。しかし相手が大人しそうな雰囲気だったこととほろ酔い気分も手伝って沙智は彼に軽く声をかけてしまった。
失敗した。
そう思ったのは五分も経たないうち。ナンパと勘違いされたらしい。相手は沙智の右隣に座るとやたら近い距離感で甘い雰囲気を作ろうとしてくる。
自分から声をかけておいて、今さらそんな気はありませんでした、とも言いにくい。後悔しながら肩を寄せてくる相手に適当な相槌をうちつつ苦笑いで身を引く。
カウンターの向こうに視線を走らせて助けを求めるも、客が流れ込んでくる時間帯でマスターも他のバーテンダーも接客に忙しい。
ああ、もう。やっぱり自分らしくないことなんてするんじゃなかった。いや、そもそもお酒になんて逃げなきゃ良かった。
考えていると、誰かが沙智の左隣を陣取る気配。その距離の近さに驚いて振り返ると、そこには営業部エースの顔。
「う、あ、え?」
あまりに意表を突かれた彼の登場に沙智が間抜けな唸り声を出すと、右隣の男が「知り合い?」と不審げな声を出した。
「あ、は、いえ、はい……」
あやふやに答えながらも、沙智は左隣の彼から目が離せない。彼が何か口を開こうとした瞬間、カウンターの向こうから甲高い声が上がった。
「やだ! 哲ちゃんじゃない! ご無沙汰ね! いつ来たの?」
声の主、マスターが離れたところから素早く沙智たちに近づいてくる。
「久しぶり、禅さん。今来たとこですよ」
「哲ちゃん」はマスターの方を振り向くとこの時間帯には似つかわしくない爽やかさで微笑んだ。
「んもう! 全然顔だしてくれなくなっちゃったから飽きられたのかと思っちゃった。何にする?」
マスターの声がいつもより一段高い。興奮気味のマスターに、しかし彼は軽く手のひらを突き出した。
「ああ、すみません。今日は飲みに来たんじゃなくて迎えに来ただけなんで」
そう言った彼が沙智の腕を掴む。
「今、この人うちに住んでるんです」
え、それ言っちゃうの?
動揺して彼を見るが、彼は知らん顔。
「ええ! 沙智ちゃんの言ってた同僚って哲ちゃんのことだったの?」
マスターが素っ頓狂な声を出すのに沙智は気まずくうなずく。
「じゃあ俺たちはこれで」
そう言った彼がそのまま沙智の腕を引っ張った。
「え、あ、へえ? あ、じゃあまた」
抵抗する間もなく引きずられ、レジ前で会計を済ませると沙智たちはバーを後にした。
あまりに一瞬の出来事で頭が混乱したまま彼の後を追い駅に向かって歩く。
「なんで電話出なかったの?」
前を歩く彼がそう尋ねてきたのに対し、慌ててカバンから出したスマホを見ると数件の不在着信。全て彼からだ。
「ごめん。気づかなかった」
いつの間に、と思いながら気まずく首を引っ込める。
「なんであそこに私がいるってわかったの?」
聞きたいことは沙智の方にもある。しかし沙智が投げかけたその問いに彼は「勘」と平然と答えると駅の改札を潜った。
勘だけで場所を探し当ててわざわざ迎えに来たの? なんで?
彼の後に続きながら湧き上がる疑問に首をひねる。
駅のホームに彼と並んで立つと、ようやく彼が沙智の方を見た。
「うちで飲み直す?」
二人で?
思ったが、沙智も実はまだ飲み足りない。まあいいかと考え直して素直にうなずくと、彼はふっと穏やかな笑みを浮かべた。
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