第30話 声色を変える
そういえば南さんに彼氏がいることを伝え忘れた。そう気づいたのは帰りの電車の中だ。
海辺をしばらく散歩してそのまま待ち合わせていた駅前へと戻り、翌日が月曜でお互いに朝が早いということもありその場で解散となった。
解散してからまっすぐ帰宅の道を辿る中でこんなにも気分が晴れないのは、やはり今日のデート相手の本当の目的が自分ではないとはっきりしてしまったからだろう。
ことのほかダメージが大きかったらしく、彼が一番知りたがっていたはずの情報をすっかり伝え忘れてしまった。
電車の窓に反射した自分の冴えない顔を見て薄くため息をつく。
期待しすぎたら痛い目にあうことなんてわかりきってたじゃない。
自分に言い聞かせながら窓に映るブサイクな顔から目をそらす。
沈んだ気分のままマンションへ帰り着くと玄関には一揃いの革靴。その横にブラシやクリームが散乱しているのが目に入る。お手入れの途中らしい。
明日からまた始まる一週間に備えて革靴のお手入れなんてさすがマメ男だ。
そのマメ男本人はどこ行ったのかな、とリビングのドアを見やった時、ドアの向こうから哲のくぐもった声が聞こえた。その声音に、おや、と首をひねる。
はっきりとは聞き取れなかったものの声色は明らかに不穏だ。怒声とまではいかないが不機嫌なのは確かだ。空気もどこか張り詰めているのがドア越しにもわかる気がする。
誰か来てるのかな。
思って玄関を振り返るが、並んでいるのは磨きかけの哲の革靴と今しがた脱いだばかりの沙智のスニーカーのみ。おそらく哲は電話をしているのだろう。
本当は遠慮して自分の部屋にすぐ入るべきなのかもしれない。しかしどこか切羽詰まった哲の様子が気になり沙智はまっすぐリビングへと足を向けた。
「だから、駄目だ。そうじゃないって」
リビングのドアが近づくにつれ、哲の苛立った声がはっきりと聞こえてくる。
「違う、だから……。待てって。聞けよ」
ドアに手をかけ遠慮がちに開く。瞬間、沙智の気配に驚いてこちらを振り向いた哲と目があった。
「違う。違うんだ。もう、駄目なんだ……」
沙智を見つめたまま哲が電話口の相手に静かに呟く。
駄目だ。これは聞いてはいけない会話だ。
反射的にそう判断して哲に背を向けリビングを出ようとしたところで後ろから腕を掴まれた。驚いて息を飲み彼を見上げる。
「とにかく今日はもう切るから」
有無を言わさないトーンで相手に一方的にそう告げた哲は、スマホを耳から離すと厳しい表情のまま沙智を見据えた。おずおずと彼から目をそらす。
やっぱり玄関からまっすぐ部屋に戻っておくべきだった。
後悔の渦の中、哲と目を合わせられずにただ掴まれた腕を凝視する。
「あの、ごめん。電話の邪魔するつもりじゃ……」
何を言っていいかわからないまま口を開いた時、哲の腕が沙智の体を抱き寄せた。
「あ、あの……」
驚きすぎて息が一瞬つまり、あたふたと口を開くと耳元に哲の息遣い。
「悪い、少しの間だけ……」
ぎゅっとさらに強く抱きしめられ、戸惑いながら沙智も自分の腕を彼の背に回す。
まるでこの間の逆だ。
元彼のマンションの駐車場での状況を思い出す。ぽんぽん、と赤ちゃんをあやすように哲の背中を軽く叩くと彼がピクリと身を動かした。
「ごめん、その……いきなり……」
しばらくして身を離した哲がばつが悪そうに頭をかく。先ほどの剣呑とした雰囲気の抜けた彼は、それでもどこか浮かない面持ちだ。
「いいよ。言ったでしょ? 私も哲のために何かしたいって。私のこと必要ならいつでも頼ってよ」
少しばかりわざとらしく笑いかけると、哲はやっと沙智に笑顔を向けた。
「ありがと」
ひとまず笑った彼に安心しながら、それでも少し気まずい沈黙のあと部屋に戻ろうとすると彼が遠慮気味に尋ねてきた。
「デートどうだった?」
その唐突な問いに、忘れてたと天井を見上げる。
「うーん、まあ、良いお友達になれそう、かな?」
誤魔化すようにそう言うと哲が「ふーん?」と小首を傾げる。
実際酒の趣味も合うので飲み友達にならなれそうなのは事実だ。ただしばらくの間は顔を見たくないのが本音だが。
「あんまりタイプじゃなかった? 恋愛対象にならない感じ?」
思いがけず突っ込んで聞かれて今度こそ苦笑いする。
「というよりも向こうがあんまり私に興味がなかったみたい」
格好はつかないがそれが事実だ。やけくそ気味にそう白状して肩をすくめると哲はさらに深く首を傾げた。
「本当に? お得意のネガティブな思い込みとかじゃなく?」
「ちょっと」
さらりとけなしてきた彼を思い切り睨む。
「うそうそ。冗談だって」
可笑しそうに笑った彼が、自然に沙智の頭に手を置く。
「それにしたって、こんないい女と出会って放っておく男なんているもんかね」
本気とも冗談ともつかない調子で言った彼が優しく沙智を見下ろす。
目の前にいるじゃない。
思わず口から漏れそうになった言葉を飲み込み、沙智は「お世辞でも嬉しい」と棒読みで答えた。
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