第50話 正面が高い

 ジワジワと鳴り響く蝉の鳴き声の中、沙智の父親がベンチに座る二人にのそのそと近づいてくる。


「は、はじめまして。菅原哲と申します」


 慌てて立ち上がった哲が父親に向かって深くお辞儀したのを見て沙智もなんとなく立ち上がった。


「これはご丁寧にどうもお。沙智の父の泰典です」


 変に間延びした喋り方で立ち止まって同じようにお辞儀した父親が沙智の方を見る。


「あ、あの、お父さん、この人はね……」


 哲のことをどう紹介するかも決まらないまま喋りだした沙智に、しかし父親は待ったをかけるように手を上げた。


「こんな暑いとこで話すこともないだろお。うちに行こう。菅原さんも、ぜひ夕飯食べってって」


「でも、急ですし、ご迷惑では……」


 あたふたと手を動かす哲を相手に、父親は感情の読めないのっぺりとした表情でぱたぱたと手を振った。


「いやいや。うち、今たくさん人いるから。一人増えたところで大したことないよお。あ、でも一応母さんには連絡しとこうかな」


 ポケットからスマホを取り出した父親を横目に哲と二人顔を合わせる。


「あ、母さん? あのね、夕飯をもう一人分追加してくれんかね?」


 スマホ越しに母親と会話する父親を見つめたまま、沙智は考えをまとめようと頭を回転させる。


 まだ何もはっきりしていないのに哲をいきなり家族に紹介する羽目になるのは予想外すぎて頭がオーバーヒートしそうだ。


「いやいや、父さんの友達じゃなくて、沙智の……沙智の……」


 スマホを持ったまま言葉に詰まった父親がグリンと顔を哲に向ける。


「あの、菅原さん、あなた、沙智との関係は何かね?」


 唐突なその質問に沙智は思わず目を見開いた。


「同僚! か、会社の! 同期なの!」


 口を開こうとした哲を遮り大声でそう告げると、父親は視線を沙智に移してまたもや表情の読めない顔。


「沙智の会社の人だって。うん。うん」


 そのまま母親と一言二言交わして電話を切った父親の「じゃあ行こうかあ」を合図に三人で歩き出す。


「お父さん、ゴルフ行ってたんじゃないの? ゴルフバッグは?」


 スポーツウェアを着ているものの、ずいぶんと身軽な父親に声をかけると父親は「んー?」と気の抜けた声。


「今日は電車で行ったからゴルフバッグは宅配してもらったんだ。楽々だねえ」


 表情は変わらないがどこか楽しそうな父親に、沙智の緊張も少し和らぐ。母親とはなかなかそりが合わないが、感情の起伏の穏やかな父親は昔から沙智にとって気楽な存在だ。


「菅原さんはゴルフはするかね?」


 ぐりんと首を回して哲を見た父親に、哲の背中がシャキッと伸びる。


「たまに、接待なんかで行くことはありますが、まだまだスコアが伸びなくて……」


 対人関係が得意なはずの哲がこんなに緊張しているのは珍しい。その様子が面白くて沙智は思わず彼を凝視した。


「あれはねえ、技術ももちろんだけどメンタルなスポーツだよねえ」


 そのまま並んでゴルフ談義を始めてしまった二人を一歩遅れたところから見て、沙智は薄く微笑んだ。


 自宅の前まで来ると、父親がまたしてもグリンと顔を沙智と哲の方へ向ける。


「二人は裏から入りなさい。正面から入ると母さんすぐ気づくから。母さんは結構見た目を気にする人だから、先に洗面所で髭はどうにかしたほうがいい。使ってないカミソリあるから。服はまあ仕方ないけど。あと髪もどうにかしたいなら父さんのジェル使ってもいいよ」


 さっきまでの間延びした喋り方から一転、べらべらと喋りだした父親に哲が少し驚いた顔をする。


「うちのお父さん、オンとオフの切り替えが激しいのよ」


 父親に自宅の裏側に誘導されながら哲に耳打ちすると、彼は納得したようにうなずいた。


 普段は少し頼りないぐらいゆっくりした人なのに、真剣な話をするときや仕事モードになると途端に顔つきが変わるのだ。


 そっと裏口を開けて誰もいないことを確認すると静かに中に滑り込む。


 靴を持ったまま洗面所へ行くと、音を立てないように父親のカミソリやジェルを探す。実家なのにまるで泥棒に来た気分だ。


 身なりを整えるアイテムを一式揃えてやってから沙智は哲を洗面所に残して二人分の靴を玄関へと運んだ。


「あれ、沙智ねえ。帰ってたんだ」


 靴を揃えて置いていると、リビングから出てきたらしい弟の声。


「う、うん。ただいま」


 どぎまぎしながら振り向くと弟は不思議そうに眉を上げた。


「同僚の人が来るんじゃなかったっけ? おふくろが何かそわそわしてたけど」


「うん、今、お手洗いに……」


 意味もなくやたらとうなずく。


「会社の人って、彼氏?」


「や、そ、あの人は、そんな……」


 そんなじゃない。言い淀んで目をそらす。


 でもあの時、もしも父親に邪魔されなかったら哲は公園で何を言おうとしていたのだろう。


「何にせよ、これでしばらくはおふくろの小言聞かなくて済むから気楽になるんじゃない?」


 言われて、それはどうかなと首をひねる。彼氏がいたらいたで、いつ結婚するんだとうるさいのがあの人だ。


 哲に変なこと言い出さなきゃいいけど……。


 微妙な時期なのだ。そっとしておいてほしい。


 きっと叶わない願いだと知りながら沙智が天に祈っていると、先ほどよりずいぶんとこざっぱりした哲が洗面所の方から歩いてきた。

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