第29話 陽菜の怒り


 部室への階段をゆっくりと上りながら考えてしまう。


「そう言えば、まだ弁当を作ってくる意味、あるのかなぁ」


 彼女である天音には「高タンパク低カロリー」の理想的な弁当を作ってきた。飽きさせないためにメニューは工夫を凝らしている。手のかかる朝の一仕事だ。


 天音は今年に入ってから体重が激減中だ。二階堂にでも言われたのか、それとも思うところあってダイエットでもしているのだろう。だが中長距離の選手としては危険な水準でもある。だから、むしろ高カロリーの中身にこっそり切り替えておいて、これ以上体重の低下を防ぐことを意識している。


 どっちにしても栄養のバランスを考え、手を変え品を変える。とても手間がかかることは同じだが。


 試験中は弁当が要らない分だけ少し楽で良いなと考えている時点で、自分が「堕落したな」と思う。彼女だからお弁当を作ったのではない。頑張っている仲間を応援しようと思ったから作っていたはずなのだ。


『カレカノだから優遇した、なんてことだったら、もともとのオレが弱いんだからな! スポーツによこしまな気持ちを持ちこんだオレが悪いんだ』


 しかし、合宿前の、あのひたむきな笑顔、真っ直ぐに瞬だけを見つめてくれた表情を見られるだけで、早く起きての弁当作りが、ちっとも苦にならなかったのは事実。


 弁当作りが苦痛を伴うようになって、ずいぶんと経った。


『試験が終われば、当然、作ってくると思ってるんだろうなぁ』


 今さら、そのことに文句を言うつもりはなかった。


『そうだよ。全部、オレが勝手にやってきたことなんだからな。たまには一緒に食べたかったといえばウソになるかな? ま、今さらいっか。未練を残しても仕方ないんだぞ、オレ」


 秋から天音は幹部だけでのランチミーティングだと言っていた。幹部というのは、もちろんキャプテンと副キャプテンのこと。


 つまりは健と天音であることを追及したことはない。


 それまでは、むしろ瞬が恥ずかしがっていた。だから自業自得と言えばそれまでだが、初めて天音とお昼を食べた、あのベンチで毎日一人で弁当を食べてきたのが、この半年という時間だ。


 インターハイ予選が終わったら天音の弁当をどうするべきなのか。答えは出ているのに言葉にするのが怖くなりそうだ。


「おっと、明日のことは明日のことだ。今、やるべきことを大事にしないとな」


 部室のドアを開けると、微かな残り香。


 スズランの香り。


 天音のつけるコロンの匂いが残っているのを頭から振り払う。


「えっと、今日は大会用のジャグの点検と消毒をしておくか。それと1学期後半のデータも解析しなきゃだよなぁ」


 合理的なコーチングのためには体調管理が不可欠だ。その基本データに体重管理がある。部員は練習前と練習後、そして寝る前の体重を申告することになっている。男子には面倒だと文句を言われただけだったが、お年頃の女子部員からはものすごい反発をされてきた。


「キモ」

「ヲタ」

「ウチらの体重を見て、何を想像してんだか」

「データだけ集めて実際に何も言ってくれたことないジャンね」


 そんな陰口が女子同士で飛び交っているのは知っていた。トレーニングのためだと理解してくれるのは、おそらく超少数派だ。しかし、今さら瞬が何かを言ったとしても信じるはずがないと思っている。


『できるのは、手を挙げることくらいかな。コーサンってね』

 

 ククッと肩をすくめて、全てを諦めた薄い笑いをもらしている。


 ドアが突然開いた。振り返りもせずに、瞬は声を出した。


菅野かんのさん、まだ行ってなかったんだ? あ、テーピングが必要?」


 天才ガードの名をほしいままにした。


 コートを支配するイーグル・アイの持ち主だと言われたのはダテでは無い。目に見えない場所の動きまで感知する。コート上の動きに比べて簡単なことだ。


 なにしろ足音には個人それぞれに特徴的なリズム感がある。ステップのリズムは動きのリズムでもあるのだ。そして、プレハブ二階建ての廊下は鉄でできている。足音を聞けば大雑把な体重を含めて、様々なことがわかる。


「先輩くらいですよ。足音だけでわかるのって」


 やはり2年生の菅野陽菜ひなだった。彼女は、コロン系を極めて抑えているせいなのか、柑橘系の香りも、花の香りもしない。かわりに、ミルクのような独特の甘い匂いに、胸がザワザワさせられてしまう。


 もしも、経験のある大人がそれを解説するならば、それは「保護欲をそそる処女のニオイ」そのものだと教えたかもしれない。


 しかし瞬の理解は理屈抜きの本能だ。


 陽菜の笑顔は明るい。


 何となく太陽の下で遊ぶ仔犬を連想させる雰囲気に、その香りが似合っていると思っていた。もちろん、そんな感想を誰かに漏らすわけがないのだが。


 ともかくも普段なら人懐こい笑顔を向けてくるはずの彼女が険しい。


「どうしたの?」


 黙って入り口に立っているだけ。顔が強ばっているのは怒りを押し殺そうとしているからだろう。


 質問をしておきながら、事態を既に理解している。


『見ちまったか』


 陽菜の足音は階段とは逆側から来た。そっちには小さなトイレが一箇所あるだけ。部室のドアには窓があり、そこをポスターで塞いではある。けれども、いつからか一部が剥がれていたせいで、中が丸見えなのだ。


 大方、そこから中の二人を見て立ちすくみ、出てくるところを避けてトイレに隠れたってところだろう。


 何を見ていたのかは予想がつく。そして、正義感の強い、真面目な後輩がを見ればどんな反応をするか。


黙っていられるわけがない。


『騒ぎになっちまうよなぁ』


 瞬なりの「ゴール間近」で厄介ごとの気配。内心やれやれと思っていながら知らぬフリで笑顔を見せて、軽さを意識して話しかける。


「どうしたの? 何かある?」


 陽菜はパッチリした瞳を歪め、小さな肩をワナワナと震わせている。ウルフカットの黒髪が揺れているのを見ると、一目で彼女の抱える怒りが見て取れるのだ。


『あ~ ヤバいな。かなり来てるね~』


 普段は気が付かないフリをしているだけで、瞬は決して人の気持ちに鈍感ではない。それが男女のモノであるかどうかは別にして、陽菜がかねてから自分に好意を持っているの部員であることくらいはわかっていた。


 だからこそ、さっきの部室での浮気シーンを見られていたとしたらヤバいのだ。

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