第43話 笑顔


 インターハイの予選が終わり体育祭も終わった。3年は引退だ。若干の後片付けは残っていても、それは後回しで良いだろう。


 献血の日から健は学校を休んでいた。天音と揉めていたシーンが目に入っていた。気にならないと言えばウソになる。

 

 気にはなるが、誰かに聞くと言ってもが何かを聞けるのは、陽菜ちゃんくらい。でも2年生が知っているとは思えないし元キャプテンヤツを話題にするのも嫌がるはず。だから陽菜ちゃんには聞けない。


 天音に聞くことなんて考えもしなかった。


 ヤツらが揉めたとしても、もはや他人事だ。関わるべきことでもないと放置した。やるべき大事なことは他にある。


 幸いにして健がいないというのであれば、今日が良い。にしてしまうおう。


 部活を引退した人間が帰る時間はほぼ同じ。昇降口から天音が一人で出てきた。


 もちろん、そのタイミングを選んだのだから当然と言えば当然のこと。


 さりげなく出口で並ぶと、天音はすぐに気付いて歩調を合わせてきた。


 珍しい。昔みたいに完璧なリズムで自分の脚に気遣いながら並んで歩いてる。


 大切な話なんだ、とちょっと早口だ。緊張している。


「だから、ちょっと学校の外で会えないかな?」


 さすがに学校で別れ話をしたくない。その後の顔を誰かに見られるのはイヤだと思う。


 天音の方も瞬と一緒にいるのを見られたくないはずだ。だから「いつも使っていた、あのカフェで待ち合わせをしよう」と言った。


 一瞬、そっぽを向かれた。無視するつもりかと、ちょっと焦る。


「お外で会うの?」


 何かを考えていただけなのか? こっちを向くと意外と普通の表情だ。いや、あれだけ「やめろ」と言ったダイエットの成果なのか、顔のラインが妙にシャープだ。瞬の趣味から言ったら既に「痩せてキレイ」の域を超えているとは思う。


『まあ、オレが何か言うのも今さらだ。それにしても、この反応。外で会うのは拒否ってことか?』


 いつものように断ってくるかと思いきや、天音はヘラッと笑って見せて「いーよー」と軽く答えてから首を少しだけ捻った。


「ね? でも、大切な話ならウチでどう? 、良かったら」


 偽りの笑顔ではなかった。


 いつか瞬だけを見つめていた頃の、透き通るような笑顔がそこにある。


 一言で終わってしまうはずだ。けれども、その笑顔をあと少しだけ見てみたくて瞬は半年ぶりに天音の家に向かった。


『どうせ、この笑顔は二度と見られないんだしな。何の勘違いか知らないけど、とにかく、鑑賞するだけなら絶品の笑顔だし。ちょっと見るくらいなら良いだろ』


 今日で終わりだ。そんな気持ちが瞬を楽にさせた。久しぶりに二人で歩く。


 気まずい時間になるのかと思ったら、天音は喋る、喋る、喋る。


 瞬が作った最後のお弁当に入っていた卵焼きの話から始まって、子どもの時に食べたタコさんウィンナーが好きだった話、テストの話、近所の犬の話、昔飼っていた小鳥の話。そして初めて食べた瞬の卵焼きの話に戻った。


 本当にどうでもいい話を実に楽しそうに喋りまくった。


 瞬は相づちを打っているだけだった。


 電車を降りた後、なぜか、天音から手を握ってきた。振り払うことができなかった。指を絡める恋人つなぎ。「何を今さら」と突き放すこともできなかったし、皮肉なセリフの一つも浮かべることも出来なかったのは、瞬がお人好しだからだろうか?


 天音の手が、ヒシと握ってくる。


 くだらない話を延々と喋りまくっている、実に楽しそうな顔とは対照的な力一杯の切なさが手にこもっている。


『何だよ、この笑顔』


 ときめいてしまいそうな笑顔。久しぶりに見た瞬の好きだった笑顔。


 ドキンとした。


 自分の心に、まだ、そんな部分があるのかと驚く瞬。


 久し振りの部屋。


 あの時のままだった。


『机の上から写真立てがなくなっているくらいか、あ、カレンダーも変わったけど、それは当たり前だな』


 天音は机の上にある小さなモノを取って、瞬の目を見ずにドアに向かった。


「ちょっと待っててね、飲み物を持ってくる」

「あ、いや、話を」

「すぐ戻るから、お願い。ちょっとだけ待ってて」


 トントンと階段を下りて行ってしまった。


 もちろん、部屋を探し回るようなことはしない。もしも見てしまえばダメージを深くするだけだから。


 以前だったらベッドに座っただろう。しかし「このベッドでヤツとやってるのかよ」と思うと座るのをためらってしまった。


 結局机の引き出しに寄っかかるカタチでフローリングに座った。


 それからしばらく戻ってこなかった。


「待たせちゃったね、ごめ~ん」


 えっ? と息を呑む瞬。


 パイル地のオフショルダーの部屋着。コロンを付け直してきたのか、いつの間にか懐かしく感じるスズランの匂いがフレッシュだ。


 激しい既視感。


 の服だ。初めて部屋に来た時に着ていた服だった。シャワーしたばかりだとわかる天音は、手に飲み物など持っていない。


「久しぶり」


 座り込んだ瞬と目線を合わせるように跪いて、顔を覗き込んできた。


 ニコリ。


 瞬の好きだったあの笑顔が目の前にある。


 言葉をためらった。


 一言だけのつもりだった。「ちゃんと別れよう」と言って、目一杯の努力でにっこり笑って「ありがとう」も付け足すつもりだった。


 最後の最後に意地を張ろうと思ってたのだ。


 しかし、この笑顔に向かって、それを告げるのは勇気が必要だった。どんなに意地の悪い見方をしても、その瞳に自分しか映ってないのは明白なのだ。


『オレは、何かを根本的に間違えていた? これって、オレのことが大好きな女の目じゃん。いや、違う、そんなことはない。オレは見たんだ! あれも、これも! 何度もだ! ホテルから出てくるところだって見たじゃん!』


 言うんだ。言ってしまえ。たった一言で楽になれるんだぞ!


『でも、目の前の天音は、オレが大好きだった天音だぞ? いったい、何を間違えてたんだ? いや、違う、あんなに冷たい女だぞ! こんな笑顔を見せるなんてありえない。オレの勘違いに決まってる! ちゃんと別れるんだ!』


 勇気をふるって口を開こうとした機先を制して「図々しいとわかってるけど、お願いがあるの!」と両手を掴んできた。美少女の必死の表情だ。


 瞬だって年頃の男の子だ。こんなに、切ない願いを込めてすがってくる少女をはね除けられるわけがない。


「なに?」


 それだけを言うのがやっと。


「この後で瞬が何を言っても ……どんなコトを言われても、なんでも聞くから、先にエッチしてくれませんか? っていうか、してください」

「え?」


 あまりにも斜め上の展開。しかし、シャワーを浴びてきたということは確信犯でもある。


 瞬の返事も聞かずにオフショルダーの部屋着をグッと降ろしたのも、あの時と同じだった。


『着けてない!』


 久しぶりに見てしまったの胸は、想像以上にインパクトがでかすぎた。


 しかも、だ。


 立ち上がりながら、スルスルと降ろしていくパイル地は腰の膨らみを超えると、ストンと一気に落ちきった。


 布地のサークルからスッと出てきた女性は、一糸まとわぬ姿。


 大事な所も隠さずに手を差しのばしてきた。


「ちゃんと、。言いたいことがいっぱいあるって思うけど、お願い。後で必ずハイって返事をするから」


 瞬は言葉が出せなかった。


 目の前の女性は、輝くほどに透き通った笑みを浮かべると抱きついてきた。それをはね除けられるほどの意地は持ち合わせていなかった。

 

「嫌だと思うかもしれないけど、最後のお願いです」


 懐かしい匂いで包んできた女性は「ください」と言った。


 少年は甘やかな身体に意地を溶かすしかなかったのだ。

 

 どれだけ時間が経ったのだろう。既に日は落ちている。夢中になってしまった。天音は恥ずかしいというセリフを1回も言わなかった。ただひたすらに瞬のしたいことを読み、したいことを先回りしようとした。


 一度、二度、三度。


 瞬の全てを受け止めて、天音の声は嗄れた。


 ハアハアハア


 瞬の息が上がった。限界だった。


 ベッドに横たえての腕枕。まるで、昔に戻ったみたいだ。


『でも、違うんだ。ベッドを出たら、きっと天音になるんだから』


 天音の中に吐き出してしまった分だけ言葉が重くなってしまった。


 どの顔をして別れを告げれば良いというのか。

 

 先に「戻った」のは天音だった。


 瞬の方を見ようともせず、スルリとベッドを抜ける。


 さっきの部屋着は衣装だったと言わんばかりに見向きもしない。引き出しから出した新しい下着を着け始め、部屋にかかっていたニットワンピを着る。


 慌てて瞬も制服を着た。


 そして沈黙。


 何か喋るのを恐れるように、天音の手が袖を掴んできた。


 黙ったままグイグイと玄関に引っ張られて、いつの間に掛けていたのか、玄関の鍵とチェーンを外すと振り返った。


 勢いに押されて靴を履いた。


「さっきの約束」


 と言って、トンと玄関を登る。


「いいよ、瞬、言って? わかってるから」


 言葉を待ち受けている天音の目が真っ直ぐに見つめている。


「わかった…… 天音、あのな、オレ達」

「ごめん」


 ふわりとスズランの香りをさせて、深く頭を下げてきた。


「やっぱり、さっきのウソ。ダメ。聞きたくないの。わかってる。だから、これで許して! 今まで本当にごめんなさい」

  

 さっき見た天音の目は全てをわかっているのだと書いてあった。抱いている間も、ずっとそんな表情だった。


 だから、瞬は、最後に「ありがとう」だけを言ってドアを出たのだ。ドアが閉まる瞬間も天音は頭を上げていなかった。


 

 














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