第5話  距離


 コン


 窓を軽く叩く音。


「あっ、いっけない」


 エアコンをかけている。普段は開け放している窓もエアコンを効かせるために閉めていた。うっかりとカギも掛けてしまったらしい。


 天音はパッと立ち上がると、ためらいなくカーテンと鍵を開けた。同時にサッシがスルッと開いて滑り込んできた長身。


 何百回と繰り返されてきただけに、流れるような動きだ。


 サッと窓を閉めながら「どうだった?」と聞いてきた。


 二階堂たけるは自分の部屋にいるように自然体だ。部屋着姿の天音も何一つ気にすることなく笑顔で迎えた。


「ありがとう。うまくいったよ」


 よかった、と言いながら当たり前のようにベッドにポンと座る。いつもの場所。


 手慣れた動きで天音も並んで座わる。


 深夜だ。女の子の部屋に男が入るなんてありえない。しかも窓からだ。


 普通なら「事件」になる。たが、二人は兄妹のように子どもの頃から行き来している。お互いの家はベランダ越しに五十センチしか離れてない。


 いつからか、こうして窓からお互いに訪れるのが当たり前のような感覚になっていた。


「今日の昼に話したんだよ?」


 昼の顛末てんまつを得意そうに天音は話した。


 カレカノのお昼ご飯がよほどうれしかったのだろう。心からの笑顔を浮かべながら、横に座る幼なじみの脚をペシペシとと叩いている。意図しているわけではなく、子どもの頃からの距離感のままの自然なボディタッチ。


「な? サンドイッチ作戦は上手くいっただろ?」

「う〜ん、でもけっこう恥ずかしかったけどね。正直、健とするのと全然違う感じ」


 子どもの頃から一緒の食卓に着くのは当たり前だ。おかずの交換も、互いのケーキの「味見シェア」も普通にしてきた。兄妹のようなもので、そこに特別な感情は浮かばない。


 父親とは中学まで、健とは小学校に入るまで一緒に風呂に入っていた天音だ。まさに兄妹の感覚が大きい。親や兄妹と食べ物を分け合っても特別な感情が湧くことありえない、というわけだ。


 けれども、天音は今日それを「彼氏」とした。全く違う感覚だった。恥ずかしさと、そして限りないうれしさを感じたのだ。


「いいんだよ。そうやって、一緒に食べたって感覚があると距離が近くなるからな」


 キュッと華奢な肩を抱いてくる健だ。


「そういうものなのかな? あ、でも、健、この手はダメかも」


 Tシャツの肩を抱いてきた手をそっと外す。


「え? あ、ごめんごめん」


 健は申し訳なさなど微塵みじんもない顔で手を引いた。


「私は嫌じゃないけど、もしも瞬が知ったら嫌な気持ちになるといけないでしょ」

「まあ、ほら、兄妹みたいなものだから特別ってことで許してよ」

「う~ん、私は良いんだけど、でもぉ、ほら、彼氏に悪いでしょ?」


 得意げにニヘラっとして「彼氏」と発音した美少女は幸せそうだ。


「大丈夫だよ。まさか、天音はペラペラとオレ達のことを喋らないでしょ? 喋らなきゃ誰もわからない。それにオレ達だけの特別な信頼関係がいいんじゃん。幼なじみってやつは、さ」

「そりゃ、確かに、こんな時間に男の子を部屋に入れないよね。健が特別なだけで」


 深夜の部屋に二人っきり。それどころか、まだ母親は帰ってないから「家に二人きり」となる。雑誌の編集の仕事は不規則だし、泊まりになることもしばしばだ。一緒のベッドで朝まで寝てしまったことだって何回もあった。


 「朝まで家に二人っきり」の状態だ。健がその気になったら、背も高く力も強い相手に女性が身を守ることなど出来ないだろう。天音も頭ではわかってる。


 けれども幼なじみゆえなのか、まるっきり危機感がわかない。兄妹が二人で留守番をして身の危険を感じないのと同じレベルだ。


 そして健にも知られてはならない特別な天音の事情もあった。「だから信じたい」という想いを強くする理由があったのだ。


 この事情がなかったら健への信頼がこのレベルになることはなかっただろう。


 そんな事情を天音はカケラも見せることなく、天使の笑みで屈託無く笑う。


「ヤッパ、頼りになるぅ〜」


 ツンツンと二の腕を指でつつく。


「これからも、天音の初カレと上手く行くように応援するから、大いに頼りにしてくれたまえ」


 ニコッと笑いながら、今度は正面からガバッとハグしてきた。


 あ、これは、ちょっとダメかもと天音が思う前にパッと身体が離れた。


 もちろん、こういうハグも親近感の表現なのだろうと本当の意味では気にしてない。だから「彼に申し訳ない」と考えなければ良いだけだ。健の方だって少しも気にする様子を見せずに話は進んでいく。


「陸部に来てくれたら、まずは記録員の形で登録して、部の中ではマネージャーってことにしようか」

「うん。きっと彼なら大丈夫だよ。今日だって、ちょっと話しただけで、いろいろとトレーニングのことも考えてくれてたみたいだもん」


 中学時代の瞬は「高校生になったら本気で全国大会優勝を狙っていた」と告白してくれた。そんな瞬が「こんなオレが言うのはおかしいと思われるかも知れないけど」と前置きして教えてくれた。


「インターハイを狙うには、ひたすら上を狙わないとダメなんだ。少しでも現状維持でいいと思った瞬間からアスリートは負けだよ」


 ひたむきな目をして語っていた瞬を思い出している天音だ。

 

「大竹はいろいろと詳しいみたいだから期待してるよ。ただ、部員達へのアドバイスは、オレを通じてもらうようにした方がいいね」

「どうして?」

「バスケと陸上の違いがあるだろ? そのあたりを噛み砕いて部員に伝えた方が、彼の良さを理解してもらいやすいじゃん」

「あ! なるほど。違っていることがあったら、それは健が伝えないようにするわけか。それならみんなも受け入れやすくなるかも」


 天音は彼の良さを受け入れてくれる人が増えるのを単純に喜んでいた。


「そうだよ。初めが肝心だからね。彼の知識を大いに生かして部の財産になってもらおうよ」

「うん。瞬も応援してくれるって約束してくれたし!」

「ああ。オレと天音、二人ともインターハイ出場、するぞ」

「うん」


 ハイタッチしてからの熱いハグ。


『あ〜 やっぱり健の胸は安心する』


 ギュッと抱かれながら、思い浮かべるのはやはり彼のことだ。


『瞬に抱き締められたら、きっと、もっともっと幸せなんだろうな』


 胸をキュンとさせながら、しばし腕の中。


 そんなやりとりを「彼女」がしてるとも知らず、瞬は明日の英語の予習をコツコツと進めていたのだった。



 

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