第15話 今の君が

 天音の声はか細いが込められている気持ちは真剣なものだった。


「お母さんに言われたの、お前は汚いって」

「えっと? お母さんに? 天音が? なんで?」


 そこで慌てて「こんなに綺麗なオレの天音に、何で、そんなコトを言うんだい?」と自分も囁き返してから「ほら、ナイショ」と耳を差し出した。


 呼吸三つ分のためらいの後で「ほら、私の初めての人。絶対にしちゃいけない相手だったの。だから、お前は汚い、汚れてるって、すっごく叱られたの」と、途切れ途切れの告白。


 とっさに「相手は誰だよ?」と聞き返そうとして、それがではないことに気付いたのは奇跡に近い。


 おそらくは不倫だと直感した。ひょっとしたら相手は中学の教師だとか? とまで思ってしまった。


 もしも、この時「相手は誰だよ」と追及していたら未来は変わっていたのかもしれない。しかし、瞬の優しさは、天音の「汚れている」という言葉と、ついこの間の自分のセリフを結びつけるのが先だった。


 考えてみれば、あの時からおかしかったのだから、もっと早く気付いてあげれば良かったと自責の念も入っている。


「オレが汚いものが嫌いって言ったからだろ?」

 

 あくまでも囁き声だ。だから、抱き合っているのは必然の行為なのだ。


 コクン


 頷いた後、頬に伝わってきたのは嗚咽である。


「しゅん、にぃ~ んぐぅ、きらわれたくぅ、ないぃ」


 涙声を聞かなくても、頬をくっつけ合っているから涙が流れているのがわかってる。傷つけたのは自分なのだ。、また人を傷つけてしまったと瞬は胸が塞がれる。


『知らない所で天音を傷つけていたなんて。ごめん。本当に、ごめん』


 胸が潰れそうに痛い。自分が吐いた何気ない言葉が、恋人を傷つけてしまった。天音は何も悪くないのに、傷つけてしまったのだ。


 後悔、と言う言葉では片付けられない重い痛みが胸をついていた。


 だからこそ、芝居がかったセリフだって平気で言えた。天音の傷を治せるなら、自分は何でも言ってみせると決心がつく。


 瞬の頭が全力で動いている。天音の性格、喜びそうなアプローチ。そして傷口……


 決断したら、後は実行だ。歯の浮くようなセリフも必要なのだと割り切る。


「天音は、オレのコトを信用してくれるよね?」

 

 コクコクコク


 当然だとばかりに何度も頷く。嗚咽が部室に響いている。


「オレは天音が好きだ。信じるね?」


 ためらいがあってから、コクッと頷いた。


「天音はオレが好きだね?」


 即座にコクッ、コクッ、コクッと勢いよく頷いた。


「オレは以前、君に言ったよ。覚えてるかなぁ、それはね」

 

 いったん言葉を切る。天音の耳が全力を挙げて聞こうとしているのを確かめてから、と同じセリフを囁いた。


「過去のことだろ。今のお前が好きだ」


 ギュッと抱きしめてくる力が入った。覚えているのだろう。


「お前は汚れてなんかいない。オレの好きな天音はとっても綺麗だ。今の天音が好きだ。過去なんてどうでも良い。オレの腕の中の天音はホンの一ミリも汚れてなんかいない。愛しているよ、可愛い天音」


 しつこいほどに名前呼び。今まで使ったことがない「愛してる」とうセリフ。


 まるで恋愛小説のイケメンのようなセリフを全身で囁いていた。


 その瞬間、うっうううといううなり声を上げたかと思うと「うわあ~ん!」と泣き出したのだ。


「どうした、どうした、どうした?」


 経験値の少ない瞬には、それが「無条件の愛に甘えられたうれし泣き」だと言うことに気付けるはずがなかった。


 けれども、しばらく泣いた後「ありがとう」という言葉が聞こえてほっとした。


 これで「とりあえず」という言葉が付いているが、とにかく、解決したことだけは確信できる。傷つきやすい少女の心は、愛する人間の一言で傷つきもするが、回復もできるのが世界のオヤクソクなのである。


 しばらく、嗚咽を漏らしていた天音が、やがてポツンと言った。


「でもね、瞬」


 頬に顔を押し当てたまま肩を振るわせている天音だ。


「なんだよ?」

「違ってたよ」


 声に挑発の響きが籠もっている。


「違ってる?」

「うん。あの時はね、過去のことだろ? 今のが好きだからって言ってくれたんだよ~」

「あ、ば、ばかっ、そのくらい!」

「い~けないんだ、いけないんだ。瞬の方が覚えてなかった。すごく嬉しい言葉なのにぃ」

 

 一度瞬の肩に顔をこすりつけた後「化粧、落ちちゃったじゃん!」と小さく独り言が聞こえてきた。


 バンと勢いをつけて瞬の胸を突き飛ばして「あっち行ってて! 嫌い! もう~ こんなに泣かせて!」と全身から甘えを発しながらの「出てけ!」のセリフ。


 どうやら、元気になったらしい。


「わかった、わかったって!」


 泣いた顔を見られたくないだろうと言うことくらいは瞬だってわかる。慌ててドアから出ていく瞬に向かって、天音は唇を尖らせた。


「もう~ こんなに泣かせたんだから、帰りは、ウチに寄ってよね! 責任をとってもらうんだからぁ!」


 どうやらをくれるつもりらしい。


 カレカノ特有のふざけっこ。きっと帰り道の天音は、いつもにも増して甘い顔をしてくっついてくるんだろうなと瞬は嬉しくなっている。


 愛の戯れのようなイチャイチャを、他人からはどう見えたのかも知らない瞬と天音であった。

 

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