第19話 接吻 〜天音〜
背中を撫でる手が、少しずつTシャツをたくしあげている。天音だって頭ではそれをわかっている。
今では半ば素肌を撫でられているのだから、わからないわけがない。
しかし、男の手が背中を撫で回しているというのに、少しもイヤな気持ちにならないことが天音を困惑させている。
本気で嫌だと思ってないのに、今さら「やめて」と言っていいのだろうか?
おまけに健の言っていることの意味がよくわからない。シェア? そんなことができるのだろうか? 理解しようと努力しているのに、わからない。
言っていることがどこか変であることは確かだ。そのまま受け入れていいものかと天音は混乱している。
健の声は落ち着いていた。
「オレと大竹、どっちも手を引っ張ったら天音が辛いよね? 大竹は優しいんだろ?」
「そ、そうだよ。優しいんだよ。だから、健の気持ちは嬉しいけど」
良かった。この方向なら断っても大丈夫そうだとホッとする。
なんと言っても幼い頃から仲の良い健だ。どうしても傷つけたくないという優しさが天音の心にはあった。
しかし、健は首筋に埋めた顔をゆっくりと横に振った。
「違う、違う。オレと大竹が同じ方向に引っ張れば良いじゃんってこと。優しいから、それなら受け入れてくれるだろ?」
「同じ方向?」
意味がわからない。
「だから大竹が苦手な部分をオレが大切にする。オレで足りないところは大竹に任せるっていうのはどうだい? それなら同じ方向だ。天音を大切にしてるし、裏切ったことにならないだろ? それに、そんなの今までもやってきたことだよね?」
当たり前のような口調で語っているが、意味がわからない。
『え? 何かおかしくない?』
しかし、考えてみると確かに瞬とのことでいろいろアドバイスしてくれたのは健だった。今までもやってきたと言う言葉には頷く部分がある。
もうちょっと話を聞く必要を感じた。少なくとも「それって変だよ」の一言で切り捨てて健を傷つけてしまうことを恐れたのだ。
「どういうこと?」
腕の自由がほしくて、袖を抜いてしまった。半ば脱げてしまったTシャツは首に引っかかっているだけになる。幸いブラをして来たし、この暗さならろくに見えないはずだと計算した。
『お部屋でハグした時は、ノーブラだったことだってあったもんね。今さら、この程度を気にする関係じゃないわ』
天音の中の誰かが「だって健は身体を求めて来たりしない。家族のようなものだもん。だから気にしなくて良いの」と囁いている。
今や健の両手は背中を直接撫で下ろしていた。しかし嫌な感じがないのは相変わらずだ。
手を意識しつつも、天音の意識は話の「先」にだけむいていた。
「天音がしたいのに大竹が苦手なこと、したくないことをオレが引き受けるだけだよ。そうしたら、裏切ったことにならないだろ?」
「彼に苦手なことなんてあるのかな?」
「例えば、さ、あいつは真面目すぎるだろ? 楽しく遊んだり、くだらない話をダラダラしたり、そんなことは苦手なはずだ。カラオケだって嫌がるもんな」
「うん。カラオケは嫌みたい」
「オレだったら、そういうのを付き合ってあげられる」
「う~ん。だけど」
ためらいつつも「それだけだったら問題はないのかな?」と思ってしまう天音だ。
「それにさ、天音にかけてる時間は膨大なはずだよ。あの秀才君は、勉強時間に困ってるんじゃないか?」
あっと思った。確かに、自分が瞬の時間を食べちゃってると思ってしまう。何しろ、夜中までチャットも電話もしちゃってる。その上、朝、お弁当まで作ってくれてるのだ。そのくせ、翌日にはデータを解析してアドバイスをしてくれたり、新しいトレーニングを教えてくれる。
いつ勉強してるんだろう? 私が邪魔してる? このままで行けば瞬の生活は辛くなっちゃうかも……
「少し、思い当たることがありそうだね」
「うん」
さすが健だ。ちゃんと、そういうところも考えてくれるなんて。
このまま迷惑をかけていったら、いつか嫌われてしまうかもしれない。それだけはダメだ。我慢しないと。
ゆっくりと背中を撫でながら何も言わなかったのは、天音の反省が染みこむ時間を読み込んでいたかのようだ。
「大竹は天音にとって大切なんだよな?」
「当たり前じゃん」
「オレを嫌いではないんだろ?」
「そうだけど」
「じゃあ、天音は大竹を大切にして、大竹も天音を大切にして、そしてオレも天音を大切にしたい。天音も大竹の時間を大切にしてあげて、オレには優しさを半分だけ分けてくれれば良い。どう? 今までと同じだろ?」
半分だけ優しくしてあげる? それだけで、今のまま? だけど、それって調子よすぎないだろうか?
「な? 天音。君が好きだ。優しさを
スッとあごに手を添えられた。その意味がとっさにわかりながら、天音は手を振りほどけなかった。
頭にあったのは「振り払ったら健は傷つく」という言葉。けれども、それが本当なのかは別のこと。
幼なじみの唇が重なってくるのがわかっていたのに逃げられない。
唇が重なった。
キスしてしまった!
ドキドキ感がすごすぎる。
『ハァーッ 私、どうしちゃったんだろ?』
幼なじみに抱きしめられて、キスを許してしまった。今も素肌を直接撫でられている。これでは恋人同士の
『瞬という彼氏がいるのに』
許してしまった自分を叱りつつ「だけど」と言い訳してしまう自分を持て余してしまう天音。申し訳なさはあるのに、嫌な気持ちが起きないのだ。何よりも拒否すれば健を孤独にしてしまうという罪悪感が言い訳になってしまう。
『どうしよ? どうすれば一番良いの? 私が好きなのは瞬だけなのに。それは間違いないのに! でも、健を傷つけるのは嫌だし。どうしたら誰も傷つかずにすむの? 我慢したら…… 私が我慢したら…… あぁ、ごめんなさい、瞬』
しかし、そんな風に思考が乱れ、ふわふわしている天音を安心させるかのような囁きが聞こえる。
「
「半分って…… これ、ダメだと思うん、んっ、んっ~」
またしても唇が重ねられた。思わず目を見開いたまま。
しかし健の唇は、悠々とくっつけられている。
何秒だったろうか?
ようやく顔を引いて唇を離した。それを健は無理に追ってこない。代わりに「ほらね」と嬉しそうに笑った。
「何がほらね、よ。ダメだってば」
「だって嫌がってない」
「だけど、これ、ダメだよ」
瞬が知ったら絶対怒る。裏切りだもん。
「そうかな? うっとりしてくれたみたいだけど」
健が突きつけた言葉。
天音は心に張ったバリアが割れたのを知る。
埋めてしまった記憶の彼方から「本当は嫌じゃないんだろ? 気持ちよさそうだったな」という言葉が引きずり出された。
あの時、言われた言葉だ。
否定できない自分を見つけて唖然としている天音だった。
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