第39話 先輩のえっち



 具体的なをして勝てると思わせないといけない。


 オマジナイは形が大事なのだ。


「じゃあ、まず故障防止のバックキックと片足リフトをやっておこう。筋肉を温めるだけだからワンセットで良い。それから、心拍数を130まであげるアップをすること。それが終わったら固まった身体をほぐすためにマッサージを受けること。この三つだ」


 しばらく練習に来ていない。自主練をしていたとしても、股関節を中心に伸ばしておかないと故障の恐れがあった。現在流行しているシューズは高速が出せる代わりに故障部位が従来と変わっている。しかも、一度故障すると選手生命に直結するのだ。


 実は原田先生に気に入られたのは、高速型シューズによって故障部位が股関節になったことと、その防止のためのトレーニングについての考察を書いた瞬の記事からでもある。


 2年生の陽菜に故障を起こさせたくなかった。走れなくなる哀しみを人一倍知っている瞬にとって、それは重大なことだ。


 さっき、健に腰の痛みについて指摘したのも、やはりそこに理由がある。たとえ相手が健であっても「走れない」人間を目の前に作りたくないのだ。


 まして、相手は陽菜だ。


「わかりました。でも、マッサージは……」

「ああ。やり方は教えるから、誰か友達を連れてこいよ」

「マッサージは先輩にお願いしてもいいですか?」


 真っ直ぐな目で聞いてきた。瞬は唖然として見つめ返した。


「そりゃ、スポーツマッサージだからさ。ヘンなことをするわけじゃないけど。みんな、オレにされるのは嫌がってるだろ? それに一番使う筋肉と関節をほぐすから、腰とか背中とか…… お尻だって触ることになるんだぞ」

「正直に言えば恥ずかしいですけど、嫌な気持ちはぜんぜんないです。それに天音先輩がやって貰って調子良かったのは知っています。ホントは前から私もやってほしかったんです。だから、今日は先輩にしてもらいたいんです」


 陽菜の目がまっすぐに見つめてくる。


 技術を学ぶために有料の講習会に何度も参加している。効果に関しては自信があるのだ。


「私、図々しいから、先輩が相手でももう遠慮しないことにしました」

「そりゃ、遠慮する必要はないけど」


 陽菜が目を輝かせてニコッとした。


 陽菜の言っている「先輩」が誰を指すのか気付いてないんだと思ったのだ。


 瞬は当然、自分に対して遠慮しないと受け止めた。しかし恋をした女の子が、遠慮しないと宣言するのはライバルに対してだ。


「故障防止の筋トレとアップは一応終わってます。だから、マッサージをお願いします」


 キッパリと言われて瞬も覚悟を決めた。


 幸い、荷物置き場にしている場所はそれほど目立つ場所でもない。


「わかった。十五分はかかるからな」

「何時間でも大丈夫です。先輩の好きなようにしてください」


 言ってしまった!


 陽菜は思わず顔を赤らめた。今朝、姉に囁かれた「優しくしてください、も付け加えて、上目遣いよ」は無理だった。


 チラッと見る瞬先輩の顔は、生真面目なまま「何時間も掛けないよ」と苦笑されてしまった。


 頭がそっちに回っていなかったのだろう。陽菜は自分の勝手な妄想が恥ずかしい。


「よし、始めるよ」


 筋トレ用のヨガマットを重ねて敷いて、うつ伏せ。背中から太股まで、容赦なくマッサージを施す。しなやかな筋肉だなと思いながら、大臀筋、すなわちヒップから腰、そして背筋に至るまで、ゆっくりと念入りにほぐしていく。


 ずいぶん前から天音にもマッサージはしなくなった。女性の身体の微妙な部分に触れることを妙に意識してしまうのはどうしようもない。


 天音よりもはるかにスレンダーだが、手の中の柔らかさは、ちゃんと女の子だった。そんなをしてしまう自分を恥じて、むしろ、集中しようとする瞬だ。


 次は股関節のストレッチ。股関節はもとより、つながっているインナーマッスルまでほぐさなければいけない。


「仰向けだよ」

「はい」


 本来なら恋人以外には触らせないような場所までマッサージされた陽菜は、無造作に仰向けになると「さすがに、ちょっと恥ずいです」と顔にタオルを掛けてしまった。


 真っ赤になった顔を見られたくなかったわけだが、言外に「好きなようにしてください」というメッセージでもある。

 

 陽菜にとっての誤算は「それなら全力でやってあげよう」と思われてしまったこと。いや、誤算とはいえ嫌なことではない。


 効果は、最大限になる。


 ただ「羞恥」も最大限になるだけのことだった。


『わぁあぁ、密着ですよ〜 あそこ、くっついちゃってますよ! あぁん、先輩の体温! ぁあ、もう、好きにしちゃってくださぁい!』


 あちこちをのばされながら、陽菜の妄想は大暴走中である。


 それもそのはず。

 

 脚を持ち上げ、大胆な角度に広げ、時には赤ん坊のオムツを替える格好に近い形にして身体を密着させる。体重をかけたストレッチだ。


 腰と腰が密着する。柔らかな部分に瞬の太股が当たってしまえば、年頃の女の子に意識するなと言っても無理なのだから。


 一つひとつの体勢はヘタをすれば、と言うよりも信頼関係なしなら確実にセクハラそのものだった。


 陽菜の身体は柔らかい。可動域を十分に伸ばそうとすると、身体が普通よりも密着せざるを得ない。薄いアップ着越しに体温を感じ合うのは、思っていた何倍も恥ずかしかった。


 陽菜も瞬もお互いに意識しつつ、それを意識から追い払わねばならない。


 特にやっている方は大変だ。陽菜特有のミルクのように甘い匂いが、瞬の「男」を刺激してしまう。必死になって頭から追い払い続ける必要があった。


 それはある意味で苦行に近かった。


 しかし終わってみれば苦行の甲斐があったというもの。

 

「すっごく軽いです、先輩!」


 ピョンピョンと跳びはねて喜んでいる。仔犬のようだ。


「予選レースくらいなら、これで走りきれるよ」

「ありがとうございました」


 ぺこんとお辞儀をされてしまうと何とも面映ゆい。


 頭を上げた陽奈がツツツッと近寄ってきた。


「ん?」

「男の人にあんなカッコウさせられたのなんて初めてです」


 クスッと笑った。


「お尻も触られちゃいましたね。私の感触、どうでした?」

「そんなこと!」


 イタズラな目が見上げている。さっきまでの表情と一転した明るさ。楽しそうだ。


「先輩のえっち」

「なっ! それは、陽菜ちゃんが言ったから」

「はい。文句はありません」


 え?


「でも、お嫁に行けなくなったら先輩に責任を取ってもらわなくちゃ」

「あのね!」


 ペロッとして見せた。


 古風なテンプレの煽り文句は照れ隠しなんだと伝わってくる。おそらく、瞬が気にしないように、逆に気を遣ってくれたのだろう。


「とりあえず、決勝レースの切符を取ってきま~す」


 晴れやかな顔で駆け出した陽菜は10メートルでUの字を描いて戻ってきた。


 何かイタズラでも考えてそうな顔で「先輩!」と声を上げた。


「どうしたの?」

「さっき言ったこと取り消します」

「何を?」

「先輩は悪くないって言ったことです」


 ニコニコしながら、そんなコトを言われると戸惑うしかない。


「先輩のせいです」

「あ、ごめ「だから!」」


 瞬のお詫びをぶち切って、陽菜が顔を近づけてきた。


「先輩が悪いんだから、もしも勝ったらご褒美をください」

「あ、うん、いいけど」

「ふふふ。言っちゃいましたね? 取り消し不可ですよぉ。生モノにつき返品禁止ですから」

「いいけど、ご褒美って?」

「デートしてください! それで、カフェに連れてってください。思いっきりカロリーの高い飲み物を奢ってもらいますから!」


 それは、天音との初デートの話を覚えていたからだろう。カフェに行って注文したモノまで覚えてくれている。


『天音は、そんなの忘れちゃってるんだろうな』


 チクリとした胸の痛みは、真っ赤になりながら見上げる陽菜の顔でかき消された。


 またも気を遣われてしまったんだなと思う瞬だ。しかし、その気遣いが心から嬉しかったのも事実だった。


「わかった。君とデートしたい。だから勝て」

「はい!」


 瞬は心から祈った。


 

 

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