第38話 陽菜の復活
瞬はことさらに笑顔を作ってみせる。
「ほら、そんなことよりも、そろそろUPしておけよ。一回心拍数を上げておかないとだぞ」
「わかってる、そんなことぁ」
健が激怒の表情で睨んでくる。
「そんな基本的なことを、今さら得意げに言うんじゃねーよ。この話は後で、キッチリ、落とし前をつけるからな」
「あぁ、それでお前の気が済むんなら付き合うよ。じゃ、オレは荷物を見てるんだろ? お前はレースに集中してくれ」
「何だ、その言い方は?」
まるでマンガに出てくるチンピラのような凄み方をする健の腰に手を伸ばした。
「腰が痛いんじゃないのか? この右側」
「何だよ、急に。そんな話を」
「今のシューズに合わせた筋トレをサボるからだぞ。おそらく股関節の炎症だ。無理すると走れなくなるぞ。気休め程度だけどストレッチだけでも付き合おうか?」
「バックキックとか言う筋トレか? お前さ、一年間陸部に居たってのに、結局、ちゃんとしたトレーニングがわかってねーよな、あんなのが必要だって、どこにも書いてねーぜ」
「違うよ。高速型シューズに合わせた新しいトレーニングメニューさ。なんだったら原田先生に聞いてみれば良い。緑山ではもう取り入れているそうだよ」
「なんだと?」
「ちゃんと、みんなに配ってるトレーニングメニューカードに書いておいたんだぞ。原田先生も保証してるんだ。読んでなかったのかよ」
「そ、それは、お前が、ちゃんと教えないのが」
「何度も言ったぞ? カードにも毎回書いてある。キャプテンからの指示を守っているから、みんなは大丈夫だった。やってないのはお前だけだよ」
トレーニングメニューをキャプテンからの指示という名の下に渡し始めて半年経った。憎しみに染まる健だけが、カードを一切読んでなかったのだ。
「痛かったら無理するなよ。決定的な痛みさえ出てなければ再起可能だからな」
言葉を換えれば、決定的な痛みがでれば再起不能ということだ。その痛みは今日出るのか、明日出るのか。誰にもわからない。
ただ、瞬が見る限り右の腰をかばう仕草が出始めている。時間の問題だ。
「ぐっ、お、ま、え、あっ、くそっ」
「じゃあな」
まだ、何かを言いたそうでいて言葉をなくした二階堂を置いて、さっさと荷物のところに行った。本来は1年生が荷物番を交代で務めるのだが、最近は全て瞬の仕事になっている。
それもまた、受け入れよう。荷物番だって大事な仕事だ。春の大会の時は女子の下着が消えた。大騒ぎになるかと思いきや、天音が拾って返すのを忘れていたと笑って一段落だった。
あの時はヒヤッとした。もしも、ホントに無くなっていたら疑われるのは真っ先に自分だからだ。
「もう、一年生もUPに出てる時間だ。少し急ぐか。あれ?」
無人を予想していたのに、ポツンと座っている女子がいた。
ウルフカットのショートヘアに、独特のミルクのような匂い。アップ着の上からでもわかる薄い肩。
いや、一々そんなことを分析しなくても一目瞭然だ。
「おはよ、陽菜ちゃん」
「おはようございます」
他の人間がいないときは「ちゃん」呼びになった。陽菜からの強いお願いの結果だ。ホントは「陽菜」と呼ばれたがったが、それはさすがに固辞したという、妥協の産物である。
「よかった。今日は来られたんだ。調子はどう?」
聞くまでもないことだ。しかし、それ以外に掛ける言葉など思いつかなかった。
「先輩に会えたから、もう元気です~」
『いろいろと相談に乗ってるせいか、こんな冗談まで言えるようになってきたな』
瞬の顔を見て嬉しそうにはしてくれたものの、まったく覇気のない顔だ。少し痩せたかもしれない。
「だよね」
かみ合ってない返事をしながら、責任を感じてしまう瞬だ。
「ゴメン。オレのせいだね」
「違います」
慌てたように声が大きくなる。
「先輩はあんなに優しくしてくれてるじゃないですか! あんなところを見せた、あいつらのせいです。先輩は全然悪くなんてありません。むしろ、被害者じゃないですか」
ここで何かを言えば、さらに彼女を追い込む可能性があると思うと、瞬はそこで口を閉ざすしかなかった。
「レースは出るんだろ?」
「そうですね。勝ち目はなくても、エントリーはしちゃってるんで。経験になるかなって」
元気はないが、前向きなところは残っている。やはり、太陽の下のヒマワリのような女の子だと思ってしまう。
『何とかしてあげたいな。オレのせいなんだから』
瞬は陽菜のデータを素早く計算した。最近わかってきた性格も含めて、最善策を素早く構築する瞬だ。
いちばん大事なのはモチベーションだろうと結論する。
『それなら、オレには何とかできる可能性がある』
陽菜の中にある信頼と、最近、急速に膨らんできた淡い恋心を利用するやり方だ。悪辣な手段な気がして胸はチクリと痛んだが、何もしないよりはマシだと思った。
作り出すのは柔和な笑顔。優しい先輩の表情だ。
「陽菜ちゃんなら勝てると思うよ」
「え?」
「少なくとも決勝グループには残れる可能性が高いと思う」
「ホントですか?」
九分、一分で信じてない顔だ。優しい先輩が慰めで言ってくれてるのだろうとしか思ってない。
「ここ三回くらいの君のタイムは、去年の予選通過ラインを上回ってる。しかも、三回連続だぜ? ベストなんて出さなくても十分勝てるはずだ」
最近三回分のタイムをスラスラとそらんじてみせる瞬。特に陽菜だからではない。全員のタイムはだいたい頭に入れている。そんなことは当然だと思っているが、陽菜からしたら「自分のタイムを特別に覚えてくれてる!」と言う感動につながっている。
誰だって自分が特別に思われているのは好きだ。まして、好きな男性に特別扱いされているという実感は、陽菜のテンションを一気に押し上げてきた。
「ポテンシャルは人一倍あるし、体調自体に問題があるわけでもないんだろ? 後は陽菜の意志が最大限に発揮出来れば、5千ならワンチャンあると思うんだ」
さりげなく「陽菜」呼び。望まれて拒んできた呼び方だ。
目を見開いて見つめ返してきた。喜びからの希望が湧いてきたらしい。
「オレはウソを言わないよ。君は勝てる」
ただし、瞬の言うことは本当だけどウソでもある。
去年は酷暑だった。おかげで通過ラインがたまたま低かったのだ。平均的なタイムで言えば陽菜のベストでも10秒は足りない。けれども持っている力を全て出せれば可能性はあると踏んだから、あながち全部ウソだとも言えない。
今なすべきは、モチベーションを上げることなのだから、全力で騙してあげなくちゃいけないと瞬は思っている。
化粧をしなくても、陽菜の瞳はパッチリしている。その目が、真っ直ぐに瞬を見つめて来た。どうやら、乗ってくれたらしい。
「君がその気なら、勝てる」
「わかりました。瞬先輩だもん。私、信じます」
言葉ではなくて、瞬を信じると言っている。
「大丈夫。勝てる。ただし、三つやっておくべきことがある」
「ホントに勝てるんですよね?」
それは確認と言うよりも「甘え」の表現だ。好きな男性に励ましてほしいのだ。瞬にも、それは伝わっている。
「ウソを言うつもりはないよ。君は勝てると思う。どう? 陽菜は勝つ気になれそう? オレは、君を応援したいんだけど」
微妙な言い回しになった。しかも、陽菜の好意が自分に向いていることを知ってのセリフだ。自分をズルイと思ったが、陽菜は意外なほど素直に「はい!」と頷いた。
自己嫌悪は、後回しにすると瞬は決めた。
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