第26話 醜聞 ~男と女~



 舞台は東京のど真ん中のファミレス。


 バレンタインデーフェアの装飾が控えめになされたドアを開けて背の高い男は中に入った。コートはすでに脱いでいる。


 暖房の効いた店内で両手を一度揉んでからあたりを見回した。時間が中途半端なだけに空いている。


 予想通り、一番端の席に女を見つけた。

 

「そこか」

 

 そんなセリフが聞こえるような顔で笑顔を作ってからテーブルに向かう。


 一人の女が座っていた。


 汚物を見る目で男を認識しつつ、無視して珈琲を一口飲んだ。全身に拒絶の気配を濃厚にしてる。


 しかし、呼び出したのは女の方である。男は遠慮なく近づいた。


「久しぶり。少し痩せた?」


 そう言って前に座った男。


 女は面白くなさそうな表情を露骨に浮かべた。以前見た時よりも血色が良くなっていることに気が付いたのだ。弁護士同伴で最後に会ったのは三年前だ。あの時は目も落ちくぼみ、髭も剃らず、蒼白だったのを覚えていた。 


 女は独特の目で相手をチェックする。


 確かに男は緊張しているらしい。余裕がありそうな顔をしているが、手が落ち着きなくテーブルの上をあちこち触っている。


 だが、男の姿は予想と違った。もっと惨めな姿であるべきだ。


 それなのに、着ている服は安物だが身ぎれいにしている。ヒゲも髪もきちんとしていた。


 眉毛も整えた顔に薄笑いすら浮かべているではないか。


 生きる希望を持っている人間の姿だ。


『気に食わないわ』


 女は思った。さすがに今の生活に少し慣れてきてしまったのかも知れない。


 もっともっと苦しめば良いいのにと呪詛を込めて男を睨んだ。


 あのまま地獄に落としてやるべきだったかと真剣に思った。一方で「最後まで金を搾り取ってやるからね」という気持ちもあるので、しっかり働くだけの身体を残しておけとも思う。


 もちろん、男が渡してきた金は全て娘の通帳に入れている。たとえどんな金であっても、あって困るものではないのだから。


「世間話をするつもりはないわ。呼び出した理由はわかる?」

「あ、えーっと」

「とぼけないで。約束が違うわ。ちゃんと支払いなさいよ」


 女の怒りをまともに受け止めて、男の顔が固まった後、視線が下を向く。


 ふぅっと、一つ息を吐き出してから顔をあげた。


「なんだよ。会うそうそうカネの話か。すまないが、もう少し待ってくれ」


 女の怒気を外すためなのか、テーブルに置かれたタッチパネルをいじるとドリンクバーを注文した。


 女が何かを言う前に「ちょっと失礼」と座を外した。


「ごめん、ごめん」


 フレーバーテイーを手にしてきた男は、少しもすまなそうな表情をしていない。


 むしろ余裕が感じられることに、女は冷たい怒りを腹の底で爆発させた。


「なんだか、とぼけた顔になっちゃってるけど、まさか自分のしたことを忘れたとは言わせないわ」


 あの日、包丁を持ち出さなかった自分に少し後悔している。しかし、娘を親無し子にするわけにはいかなかった。ギリギリで働いてしまった自分の理性が恨めしい。感情だけで動ければ、こんなクズの顔なんて二度と見なくてすんだのに。


 全身に怒りをみなぎらせ、男を呪殺せんばかりの視線だ。


「もちろん忘れてないよ。毎日のように考えてるさ」


 シレッとそう言ってみせる白白しさに女は憤懣ふんぬの圧力を極限まで高める。


 手にしたコーヒーカップを投げつけたくなる衝動をなんとか逃がしてから、フッと息を吐き出した。


「言ったわよね? あの子のためにお金を作る。だから警察はカンベンしてくれ。その代わり自分が最低限生きるお金以外はいらない。全部、あの子のために差し出すって」


 言葉を吐き出すと、その分だけ怒りがこみ上げるかのように、声が大きくなっていく。


「それは今も変わってない。全部あの子に出してるよ。だが会社の方が上手くいってないんだ。オレなりに頑張ってるつもりだけど」

「ただでさえ去年の秋から、毎月の金額を勝手に減らして、先月なんて、それすら払ってないわ。どういうつもり」

「いや、頑張ってるつもりなんだけどさ」


 男の声に少しも真摯さを感じない。女は静かにヒートアップしていく。


「言っておくけど、少しでも誤魔化すつもりなら、そのまま警察よ? 念書だって保管してあるし時効になんてさせない。あの子がもうすぐ18になるって安心したのかもしれないけど、ケダモノがやった事実は消えないし、仮に警察の方が時効になっても、会社にあの念書を持っていくわ。受け付けで読み上げてあげる。こいつは10歳から実の娘に手を出してきたキチクですって」


 ガンッ


 女の手が机を叩いた。その勢いに、少し離れた席のカップルがチラッとこっちを向く。


「わかってる! わかってるから! すまない。落ち着いてくれ」


 痩せた男は、女の声を手で抑えた後、周りを見渡す。もちろん、誰も聞いているはずがない。女の方も、もともと周りの客との距離を考えて座っている。


「お医者様の診断を忘れたとは言わせない。教えたはずよね? いえ、そのホウキ頭にもう一度言って聞かせましょうか」

「あ、いや、わかってる、わかってるって」

「わかってない! CSA性的児童虐待の後遺症は、虐待を受けた年月の最低倍の期間、今後12年は起きる可能性が高いって。つまり30歳までは怯えてなきゃいけないのよ! 無事に乗り越えても、その後だって比較にならないほどの高確率だし。症状だって、自己肯定感の喪失やパーソナリティ障害、パニック障害に、解離性障害、それに鬱。何でもありの状態になるって言われたのよ! 自殺率は通常の百倍以上だって。娘を殺したいの?」

「そんなことはなっ「全部、お前のせいだ」」


 取りなす男の言葉をぶち切って、女は怜悧な刃物のような眼光で射すくめながら喋り続ける。


「長年、オモチャにされたマインドコントロールのせいで、強い言葉に抗えない性格にされてるんだからね。幼い子が身を守るために作り出したもう一つの性格だよ。この先、悪い男に騙されても抜け出せなくなるかもしれない。そしたら、そいつとお前を刺して、私も死ぬから」


 そのために自分がいなくなっても生活できるだけの金を本人の通帳に用意しているつもりだ。その日を恐れつつも備えなくてはならない。


 全部、コイツから搾り取ってやると目に力をこめると「覚悟しな」と吐き捨てた。

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