元正義の味方の推理
待ち遠しい事というものは来るのが遅く感じるもので、約束の10時までの時間ものろのろと流れていった。
「おまわりさん、まあー?」
待ち遠しいのは礼雄も同じなのであろう。おまわりさんが来るまでは寝ているという約束だったはずなのに、弥生と一緒にリビングで笹野が来るのを待っていた。
「もうすぐ来るはずだから、待っててね。それから、ママはその人とご用事あるから挨拶したらまたおねんねしていてね」
「はーい」
すっかり機嫌は直ったようで、いつも通りの元気な声と右手を上げるいつものポーズで返事をした。
すると、そんな礼雄に応えるかのように来訪者を告げるチャイム音が家に響いた。
首を長くして待っていた二人は、すぐに玄関まで出迎えにいく。扉を開けると、そこには久しぶりに見る笹野の小柄な姿があった。
「お久しぶりです」
「わざわざ来ていただいてありがとうございます。ほら、礼雄も挨拶なさい」
礼雄は、おまわりさんに会えると楽しみにしていたはずだったのだが、いざ笹野と対面を果たすと、弥生の後ろに隠れて出てこようとしない。単に恥ずかしがっているか、あるいはおまわりさんといってしまったので、制服姿の人物を想像していたのかもしれない。
「すいません。なんだか恥ずかしがっちゃてるみたいで。この子が息子の礼雄です」
「こんにちは、礼雄君」
礼雄は、笹野の穏やかな声にも答えず、チラチラと様子を窺っているだけだった。
「こら、笹野さんにちゃんとご挨拶しなきゃダメでしょ!」
「笹野さん?」
礼雄は尋ねるような目でこちらを見上げる。
そういえば、おまわりさんが来るとしかいっていなかったので、礼雄は笹野という名前を知らないでいた。そのため、なんと挨拶すればいいのかわからなかったのかもしれない。
「そうよ。笹野さん、こんにちはって」
「笹野です。礼雄君、こんにちは」
子ども好きなのだろうか。笹野は根気よく礼雄のもたつく挨拶につきあってくれた。
「笹野さん、こんにちは!」
礼雄は、ようやく弥生の影を踏むのをやめて前に出ると、いつもの元気いっぱいの挨拶を済ませた。それを見た笹野も満足そうに微笑む。
「笹野さんはおまわりさんなの?」
「ああ、そうだよ」
そういうとわざわざ敬礼のポーズをとってくれた。
「わー。笹野さんはすごいんあねー」
「そんなにいわれるほどではないよ。でも、ありがとう。礼雄君はおまわりさんが好きなのかい?」
子どもながらの純粋な誉め言葉に笹野はむずがゆそうな顔をして、頭を掻いていた。
「うん。礼雄、大きくなったらおまわりさんになるんあ」
「そっか。おまわりさんのどんなところが好きなんだい?」
「あって正義の味方なんあもん」
「ははは、そうだね。じゃあ、私は元正義の味方ってことになるかな」
「もとぉ?」
「そう。今は正義の味方じゃないんだ」
「えー、なんえー?」
「おまわりさんの仕事をもう辞めちゃったからね。今はそうだな――ただの老いぼれとでもいっておこうかな」
笹野はそういうと、ちょっと寂しそうに微笑んだ。やはり、仕事一徹で取り組んでいた彼にとっては、定年過ぎた今でも刑事という職業に未練があるのかもしれない。
礼雄は、よくわからないような顔をしながらも「そうなんあ」と、とりあえず納得した声を出していた。
「じゃあ、ママは笹野さんとお話あるから、礼雄はベッドでおやすみしていてね」
「うん、わかったー。笹野さんバイバーイ」
最初は挨拶もできずにどうなることかと思ったが、礼雄はすっかり心を許したようだ。大きく手を振ると階段を駆け上がっていった。
「騒がしくてすいません。おまわりさんが来るっていったら興奮しちゃってて」
「いえいえ、元気でいいじゃないですか。子供は騒がしいくらいがちょうどいいんですよ」
「ふふふ。笹野さんは子供が好きなんですか?」
「どうなんですかね……。ただ、子供を見ていると自責の念が生まれてくるんですよ。馬鹿みたいですよね。今更後悔したって遅いのに」
離別しているという妻子のことを思っているのだろう。笹野は、過去の自分を悔いるかのように、ふと遠くを見つめた。
弥生はうかつな発言をしてしまったことを少し悔やんだ。
「えっと、それで、これが新たに届いた脅迫状なんですけど……」
話題を変えようと、エプロンポケットから茶封筒を二通取り出す。
笹野は脅迫状を受け取ると「どれ、拝見」とつぶやき、じっくりと眺めた。
「どうでしょう?」
「ふむ。封筒も、大学ノートもまったく同じもののようですし、同一人物からのものとみて間違いないでしょうな」
「ではケンジが……」
「そうなりますな。とりあえず、この脅迫状は、二通ともまた私が保管しておくということでよろしいでしょうか?」
「はい、そうしてください。人から恨まれていることがわかるものを手元に置いておくのは、気分が滅入りますから」
「そうですよね。私も刑事という仕事をしてきたので、脅迫状のたぐいはいくつかもらったことはありますが、やはり嫌な気分になりましたからね」
そういいながら、笹野は茶封筒を自分のてさげ鞄の中にしまった。
「それから、郵便受けにカラスの死骸も入っていたんですよね?」
「ええ。すでに処分してしまいましたが、今朝、この中に血塗れのカラスが……」
「なるほど、ケンジも少しずつですが行動が大胆になっているように思えますね」
「ケンジはいったいなにが目的なのでしょうか?」
「順当に考えれば、金の受け渡しを無視したことに対しての逆恨みなんですが、正直なところ、この男の考えていることがよくわかりませんね」
「そうですよね。私の秘密をばらせば、ケンジだっていい状況にはならないですものね」
「ええ。それに私の以前の推理では、彼は闇金かなにかに金の取り立てを受けているはず。そんな状況で、金にならないとわかっているのに、再び渋谷さんを脅す目的がよくわからない。まあ、自暴自棄になっているといってしまえばそれまでなんですが……」
さすがの笹野でも、ケンジの感情まではよみとれないようだった。困ったように頭を掻いて「うーん」と唸っていた。
「……わからんといえば、昨日この家に侵入したこともよくわからない。侵入方法は不明ということでしたな?」
笹野は眉間にしわを寄せながら尋ねる。その表情は、ドラマの刑事そのものにみえた。
「はい」
「そのときの状況というのは?」
「えーっと、電話でもお話しましたが、私は買い物に出かけていたんです。家に帰ったら、礼雄が禿のお兄ちゃんと一緒にいたっていうんですよ。あ、もし必要なら礼雄にも話を聞いてみますか?」
「いえいえ、ケンジが侵入していたということは間違いなさそうですし、その必要はないですよ」
礼雄を呼びに行こうとする弥生を、笹野は慌てて制した。
「それに、この時間に家にいて、先ほどの渋谷さんの『ベッドでおやすみしていてね』という発言から察するに、礼雄君は体調がよくないようですし、無理をさせるわけにはまいりません」
相変わらずの推理力だと、弥生はただただ感心してしまった。これなら、ケンジの侵入経路もすぐにわかるかもしれない。
「まず確認したいのですが、こちらの玄関の鍵はきちんとかかっていたんですね?」
「はい。それは間違いありません」
「ピッキングで鍵をこじ開けた形跡もありませんし、ここからの侵入はないと考えてよさそうですな」
笹野はそういってドアノブをしげしげと確認した。
「庭のほうも確認してみてもいいですかな」
「もちろんです。真相を知るために笹野さんをお呼びしたのですから」
早速、二人は家の中には入らずに庭のほうにまわることにした。すると、庭の柿の木の下で寝ていたイチローが、すぐに笹野に吠えたてた。
「あ、すいません。この子、イチローっていうんですけど、しつけが悪いせいか、すぐに吠えちゃうんですよ」
「いえいえ。私、犬好きなんで問題ないですよ」
少し驚いた表情を見せたものの、すぐにいつもの穏和な顔に戻っていた。
「しかし、気になるのは、あれですな」
笹野はそういって指さした先は、二階の寝室がある窓であった。
「あそこがなにか?」
「窓があいておりますよね? あれはなぜですか?」
「あれは、礼雄が寝ているので、窓を閉めたままじゃ暑いかと思いまして、開けているんですが」
「昨日もですか?」
「たしか開いてたかと」
ここまで質問されれば、笹野のいわんとしていることが弥生にもわかった。
「まさか! あそこから? でも二階ですよ?」
「この柿の木を使えば、一階の屋根縁にあがることは可能だと思いますが」
柿の木をポンポンとたたくと、笹野はケンジが侵入したであろう経路を指でたどった。庭に入って、柿の木をよじ登り、一階の屋根に乗り移り、そのまま開いている二階の寝室の窓から入り込む。
「このルートは渋谷さんのような非力な女性や、私のような還暦過ぎのチビ老人には難しいものがあるでしょう。だが、ケンジは三十代の男性で身長も十分にある。らくらく入り込めたと思いますよ」
迂闊であった。二階だから人が入り込むなんてことはないと思っていたが、この木を使えば簡単に侵入を可能としてしまうのだ。
「私は普段通りに過ごせとは申しましたが、危機管理に関しては普段以上にしっかりとしなければなりませんよ」
「すいません」
怒気こそ含んではいないものの、笹野の諭すような語りかけに、弥生は思わずシュンとしてしまう。だが、それが父娘の関係のようで嬉しくもあった。
「まあ、過ぎてしまったことは仕方がありません。これからは意識を高めていただければいいかと思います」
「それはもちろんなんですけど、その他に私になにかできることはないでしょうか? このままじゃ、不安で、不安で」
「うーん。正直、この一件に対してはケンジになにもすることはできないでしょうね。侵入したという決定的な証拠はないわけですし、盗まれたものなどもないという話ですからね」
「でも、家にまで入られたんですよ。なにもしないなんて……不安です」
「ケンジが大胆な行動を起こせば自分の首が締まるように、渋谷さんがなにか行動を起こすと過去の罪が周りに知れてしまう可能性があるんですよ」
「そうですよね……」
侵入経路はわかったものの、結局なにもすることができない現実に弥生は、落胆を隠せなかった。ただ、夫や息子に過去のことをしられるのだけは避けたいのも事実である。まさに八方塞がりな状況に、弥生は思わずため息をついてしまう。
「そんなガッカリした顔をしないでください。私のほうで、この近辺の巡回を強めることにしますよ。たいしたことないように感じるかもしれませんが、不審者とかストーカーって呼ばれる人種は人の目というのを気にする輩ですから、ケンジにとっても驚異となるはずです」
「たいしたことないだなんて、そんなことありません。笹野さんが近くにいてくださるだけで安心できますから。こちらからも是非お願いします」
弥生はぺこりと頭を下げた。
「あらー、誰かと思ったら笹野さんじゃないのー」
不意に二人の後ろから声がかかった。
後ろを振り返ると、庭の垣根の向こう側から、アンテナさんが顔を覗かせていた。しかし、その顔はいつもよりも、どこか元気がないように見える。
「これは安西さん、お久しぶりです。お元気でしたか?」
「もう、それが聞いてよ。私ったら一昨日の晩から夏風邪を引いちゃったみたいでね、お元気なんかじゃ全然ないのよ。社交ダンス終わって帰ってきてから、なーんか頭痛いなって思って、体温はかってみたら熱あるんですもん嫌になっちゃうわ。私って、今までお医者さんなんて歯医者くらいしかお世話になったことないから、怖くて病院にもいってないわ。主人も行け行けっていっているんだけどねぇ」
風邪をひいている割には相変わらずのマシンガントークでまくし立てる。アンテナさんがこうなってしまうと、弥生はいつもただ相づちを入れることしかできなくなってしまう。
「それで、昨日もずーっと寝て過ごしてたんだから。お稽古だって休まなきゃならないんだもの。お料理教室、オリジナルパンをつくる回だったから楽しみにしていたのに、本当にガッカリよ」
「それは残念でしたなぁ。それで、私になにかご用でしたかな?」
笹野は弥生よりもアンテナさんの扱いが得意なようで、適当な感想を答えつつ強引に話題を変えた。
「用件? そんなのないわよー。私は、イチローちゃんが吠えているから様子を見にきただけ。私ってほら、眠りが浅いじゃない? だからすぐに目が覚めちゃうのよね」
「あ、すいません。うちの子がうるさくしちゃってて」
アンテナさんが嫌味でいっているわけではないのはわかっていたが、そういわれてしまうとさすがに恐縮してしまう。
「やだ。ちがうわよ。私そういう意味でいったんじゃないのよ。ただ、最近イチローちゃん吠えてなかったじゃない。私と会ってもまったく吠えなくなったし。だから、久しぶりに吠えているもんだから気になっちゃっただけよ」
アンテナさんはそういってから思い出したように尋ねてきた。
「あら、それにしても、どうして笹野さんが渋谷さんのお宅にいらっしゃるの? もしかしてなにかあったの? よければ私もお話聞きますわよ」
さすがアンテナさんといったところか。風邪だろうが噂という名の電波をキャッチすることを忘れはしない。このバイタリティーは弥生も見習いたいところだった。
しかし、なんと答えたものか。弥生がうまい言い訳を模索している間に、笹野が先に口を開いた。
「渋谷さんが防犯のアドバイスを教えてほしいとおっしゃったので、私がこうして指導しているところなんですよ」
「あー、なるほどね。そりゃ元刑事さんですもの、いいアドバイスをもらえそうよね。それじゃあ、私の家もみてもらおうかしら。ついこの前だって不審者の噂とかあったから、私も不安なのよねー」
「それじゃあ、すぐにお伺いしましょう」
「あら、渋谷さんのお宅はもういいの?」
「ええ。ちょうど今終わったところでしたから」
「あら、ジャストタイミングってやつね。あ、でも、私、風邪気味だけどよろしいのかしら? うつったら悪いわぁ。でも、風邪が治ったらお稽古で忙しくなっちゃうし、どうしようかしら」
アンテナさんは困った顔でそういうものの、いつも通りの早口なのでさほど困っているようにもみえない。
「心配いりませんよ。私も長年病気になんてかかってないくらい体は丈夫なほうですから」
「本当? それじゃあ、お願いしちゃおうかしら。じゃあ、玄関のほうまわってくださる? あ、お茶も用意しなくちゃね。助かるわー。昨日は一日中寝てたから、人としゃべり足りなくて困っていたのよね」
そういうとアンテナさんはお茶の準備をするために、さっさと自宅に引っ込んでいってしまった。
しかし、防犯のチェックをするという話のはずだったが、アンテナさんの中ではお茶を啜りながらおしゃべりをすることになっているらしい。
「というわけですので、私はお隣に向かいますね」
笹野も結局はアンテナさんのペースに巻き込まれてしまい、苦笑するしかないようだった。
「毎度同じことをいっているようですが、いつも通り過ごすよう心がけてください。ただし防犯は――」
「いつも以上に気を使う、ですね」
先回りをされて笹野は少し恥ずかしそうに頭を掻く。
「その通りです。そして、なにかありましたら――」
「すぐ笹野さんに連絡」
欧米人のようにお手上げのポーズを決める笹野を見て、弥生は思わす吹き出した。笹野もつられたように笑う。そして、二人で声をあげて笑った。
それは、葛貫を殺した直後にケンジと二人で笑い合ったときとよく似ている気がした。あの時と同じで、根本的なことはなにも解決していない。でも、最後にはなんとかなる、弥生はそんな気がしていた。
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