第三章

笹野の推理


 今の幸せの裏に隠されていた罪。

 弥生はそれを嗚咽混じりにすべて話した。


 ケンジと葛貫の二人に出会ったこと。

 葛貫を殺してしまったこと。

 県境の山中に死体を埋めたこと。

 そして、その事件が起こったことで母の気持ちがよくわかり和解できたという、今回の脅迫の件とは関係ないことまで話していた。


 味方になるとはいったものの、想像以上の内容だったのだろう。笹野の顔は話を進めるにつれ、みるみると青くなっていった。それでも、話に時折相づちを入れながら真剣に聞いてくれていた。


「……なるほど」


 長い自白をすべて聞き終えると笹野は小さくつぶやく。


「それで、その……葛貫という青年の遺体はこの十年で発見されたのですかな?」


「いいえ、私もこの十年間、チェックを欠かしていませんが、葛貫らしき遺体が見つかったというニュースは報道されていないです」


「……ふむ」


「本当にとんでもないことをしてしまったと思っているんです。なのに、こんなことになるなんて……。やはり、警察に自首したほうがいいのでしょうか?」


「……そう、ですね」


 そうぎこちなく同意の言葉を返すものの、笹野はなにかを深く考えているようで、難しい顔をして視線を空中に漂わせていた。


「……そうですよね。自業自得ですもんね。私は罪を受け入れる覚悟はできています。私はどうなってもいい――ただ、先ほどもお話しましたが、私には幼い息子がひとりいます。もし、私が逮捕なんてことになったら、あの子がかわいそうで。あの子にはなんの罪もないのに」


 これは見苦しい言い逃れなんかではなく、本心からの言葉だった。弥生自身、人を殺したということは許されるべきではないと思っている。ただ、礼雄が自分のせいで不幸になるのだけは耐えられなかった。


「息子――礼雄はまだ六歳なんです。まだまだ母親が必要な歳なんです。だから、もし、笹野さんさえよろしければ、このことはここだけの秘密ということにしていただけないでしょうか?」


 弥生は座布団をずらし畳の上に正座になると、額を膝につけ深々と頭をさげた。

 お願いしている自分でも虫のいい話だと思った。人を殺したことを自白しておきながら、その罪を見逃してくれといっているのだ。そんな人間が目の前にいたら、普通ならすぐに警察に突き出すだろう。ただ、この人なら、笹野なら自分の考えを理解してくれるような気がしていた。

 笹野は仕事一筋の考えを貫き通してしまい、家族から愛想を尽かされた過去があるといっていた。失ったことがある人間だからこそ、家庭の大切さ、家族の尊さをわかってくれるのではないだろうかと思ったのだ。


 耳が塞ぎたくなるような沈黙が続く。


 弥生が頭をさげてから数分たっただろうか。笹野は未だに一言も話さない。おそるおそる様子をうかがうと、笹野はぎゅっと目をつむって眉間にしわを寄せた状態で腕をくんでいた。


 怒っているのだ。それも当然か。身勝手な理由で見逃してくれといっているのだ。元刑事がそれを許すはずがない。

 そう思った弥生は前言撤回の言葉を口にしようとした。だが、それよりも先に笹野がひとことつぶやいた。


「――わかりました」


 笹野はゆっくりと目を開くとこちらをまっすぐ見つめてくる。その目には、人殺しに向けられるような侮蔑の色はなく、覚悟を決めたそんな眼差しであった。


「え? 本当ですか?」


 自分からお願いしておきながらも、弥生は笹野の反応に驚きを隠せなかった。


「ええ。渋谷さんは十年もの間、人を殺してしまったことを後悔して生きてこられた。それに、あなたはもう二度と同じ過ちを犯したりはしないでしょう?」


 にっこりと弥生に向かって微笑む。その笑顔は先ほどまでの元刑事の厳しい表情ではなく、どこにでもいる初老の男性の穏やかなそれだった。


「もちろんです。あんな馬鹿げたこと二度としたりしません」


「ならば自首する必要はないですよ。ずっとひとりで苦悩されてきたのですから、十分に罪は償ったといえるでしょう」


 笹野は、すっかり薄まってしまった麦茶を一気に飲み干すと話を続けた。


「それに、警察に捕まったら渋谷さんだけの問題じゃなくなる。先ほど渋谷さんがおっしゃった通り、ご家族にも影響がでてくるでしょう。もしかしたら、あなたの息子さんはそのことが原因で非行に走ってしまうかもしれない。最悪、あなたと同じ過ちを犯してしまうことだって考えられる」


 ――同じ過ち。


 人を殺してしまうかもしれないと、そういっているのだ。そんなことだけは絶対にあってはならない。礼雄が人の道を外れてしまうなんて、考えただけでも気が狂いそうだった。


「つまり、あなたが捕まったら、新たな犯罪の種が生まれてしまうかもしれないのです。そうならないためにも、私はあなたの過去の罪を黙認しましょう」


 ふと、笹野は恥ずかしそうに頭を掻く。


「なんだか、偉そうに喋ってしまって申し訳ないです」


「そんな。笹野さんのご厚意に本当に感謝します。それに、謝らなければいけないのは私のほうです。こんな身勝手なお願いをしてしまって……」


「いやいや、私のほうこそ渋谷さんに感謝したいくらいですよ。私は一度家族を捨ててしまった身。あなたの家庭をなんとかすることで、私も罪滅ぼしができるような気がするんです。まあ、ただの自己満足でしかないんですけどね」


 笹野は寂しそうな目をしながら遠くを見つめている。恐らく、別れた家族のことを思い出しているのだろう。家族のことを聞いてみたい気もしたが、さすがに野暮だと思い、弥生は脅迫状のことに話題を戻した。


「しかし、ケンジからの脅迫状のことはいったいどうしたらいいでしょうか?」


「そうでしたな。今回のそもそもの問題はそちらですからね」


 そういうと笹野は再び腕組みをして考え込んだ。

 元刑事の人間が策を考えてくれるのだ。きっと、一般人には思いつかないような名案を提示してくれるだろう。そう期待しながら笹野の発言を待っていた。


「ほうっておきましょう」


 しばらくしてから笹野の口からでた予想外の言葉に、弥生は自分の耳を疑う。冗談をいっているのかと思い笹野の顔を確認するも、その顔は真剣そのものだった。弥生は期待していた分、笹野の投げやりともとれる提案に落胆した。


「そんな……。先ほど私の家族をなんとかしてくださるっていってくれたばかりじゃないですか」


「まあまあ、落ち着いてください」


 弥生の不満そうな声にも笹野はのんびりとした口調で返した。


「彼――ケンジとかいいましたな。そもそも、ケンジは渋谷さんを脅迫なんてできないんですよ」


「どういう意味ですか? 実際に脅迫状がきましたけど」


「そうですね。ですが、渋谷さんがこの脅迫をほうっておいたら彼はどうすると思います?」


「それは、私を苦しめるために、過去に人を殺したことがあることを夫や近所にいいふらしてまわるに決まってます!」


「いいえ、彼にそんなことはできないはずです。なぜなら、彼は目撃者ではなく、あくまで共犯者なのですから。つまり、近所にいいふらしたところで、結局は自分の罪もさらけ出さなければならなくなる。まさに自分の首を締めることになるんですよ」


 感情を押さえきれない弥生に対して、笹野は冷静に言葉を返した。それは、わがままな子どもを優しく諭す親のようであり、片親という環境で育った弥生にはなんだか心地の良くも感じた。


「わざわざ数十万円のために自分の身を危険にさらすバカなどいません」


「確かに……」


 いわれてみればそのように思えた。

 脅迫状を送られてきてから、ずっと一方的に弱みを握られていると思いこんでいたが、そもそも立場は対等な共犯関係だったのだ。ケンジのほうも十年前の事件が明るみになるのは避けたいはずであろう。


「それに話を聞いている限りだと、ケンジと会ったのはその日きりということですし、あなたが事件に関わっている決定的な証拠もあるとは思えません。そもそも、その――葛貫青年の遺体も発見されていないということは、事件として成立していないということ。つまり、彼が周りに暴露したところで、渋谷さんが否定さえしていればなんの驚異にもならないんですよ。旦那さんだって、急にでてきた不審者の話よりあなたを信じるのではないですか?」


 先日、少しだけ目に入ったケンジの容姿を思い浮かべる。つるつるのスキンヘッドに彫りの深い顔、そして安いチンピラみたいな服装。そんな風貌の男の話を雅雄が鵜呑みにするとは到底思えなかった。


「それは、もちろん私のほうを信じると思います」


「でしょう? ですから、脅迫状を無視してほうっておこうと提案したのです」


 さすが元刑事というべきか。ほうっておくという無責任にもとれる言葉の裏には、そこまでの推理があったのだ。弥生はすっかり感心してしまった。


「わかりました。笹野さんのいうことを信じます。頼れるのは笹野さんだけですから」


「そんな、恐縮です」


 笹野はそういうとはにかんだ笑顔を見せつつ頬を掻いた。


「もちろん、渋谷さんが不安に思うのも無理はないことだと思います。ですので、次の土曜日の金の受け渡しの日に私がジェイソンまでいって、ケンジが来るかどうかを確認しておきましょう。ケンジもスキンヘッドで眉もないといった特徴がある顔をしているそうですので、特定は簡単なようですしね」


「そんなことまでしていただけるなんて、本当にありがとうございます」


「いえいえ、私ができることをさせていただくまでですよ」


「……でも、ケンジは十年も経った今、どうして私を裏切ったのでしょうか? それだけが腑に落ちなくて」


 ずっと気になっていた質問を笹野にぶつけてみた。


 不意に自分の右手の小指に目を落とす。


 ――どちらも裏切らないっていう約束。


 ケンジはそういって指切りをしたはずなのに裏切った。もちろん、そんな子供じみた行為になんの拘束力もないのはわかっていた。それでも、弥生は、ケンジとの共犯関係が揺るぐことなどないと思っていたのだ。


「もしかしたら、どこかから借金をしているのかもしれないですね。それも、闇金などの良心的ではないところから」


 笹野は少し考えてからそういった。


「では、その借金の返済のために私を脅してきたと?」


「おそらくは。その根拠は脅迫状にあった要求金額。たしか八十万円でしたよね。これは殺人の口止め料にしては安すぎる。もちろん、ケンジ自身が共犯者だからということもあります。だが、それにしても中途半端な額だとは思いませんか」


 弥生は黙って頷く。


 それは弥生も気にはなっていたところだった。八十万円は大金ではあるが、どうせなら百万円のほうがきりがいい。ケンジにはなにか意図があったのだろうか。


「なぜきりがいい百万でなく八十万か。それは緊急にその額が必要だったからでしょう。しかも、自分も危険にさらされる脅迫という行為をとったということは、それほどせっぱ詰まっていると予想できます」


「だから闇金の可能性が高いと」


 弥生は思わず感嘆のため息をつく。笹野は、たったこれだけの情報でケンジの近況までも推理してしまったのだ。この人が味方についてくれて心強いと改めて思った。


「まあ、これはすべて想像でしかないですがね」


 そういうと笹野は謙遜するように肩をすくめた。


「ですがそう推測すると、あなたから金を脅しとれないとわかったら、すぐに次の金策に移ると考えられます。ですから、へたに接触をすることはせずに、様子をみるほうがやはりいいといえるでしょう」


「わかりました。だけど、もし脅迫がやまなかったら、その時はどうすればいいでしょうか?」


「可能性は低いと思いますが、万が一そうなった場合はすぐに私に連絡をください。電話番号をお教えしておきますね」


「では、うちの番号も」


 そういって二人は互いに自宅の電話番号を交換した。


「あ、これはどうしたらいいでしょうか?」


 笹野の前に置かれている茶封筒と二枚の大学ノートを指さしながら尋ねた。


「ああ、脅迫状ですね。一応、証拠として保管していたほうがいいでしょうね」


「そうですか……」


「もしよろしければ、私が預かっておきますよ。手元に置いておくのも嫌なものでしょうし、旦那さんに見つかっては大変ですからね」


 笹野はこちらの気持ちを察してくれたようで、そう申し出てくれた。


「いいんですか? 正直、見るのも嫌だったので助かります。本当になにからなにまで迷惑かけてしまって……」


「やめてくださいって。私は自分の意志で渋谷さんの力になると決めたのです。だから、あなたが気に病むことなんてないんですよ」


 自分への脅迫状を他人に保管しておいてもらうなんて普通はできないかもしれないが、弥生は笹野をすっかり信頼していた。彼は優しくおおらかで、だけども頭の回転が速い。弥生が幼い頃から思い描いていた理想の父親にとても近かったのだ。

 そんな人が力になってくれる。弥生にとってこれほど心強いことはなかった。

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