赤と黒の世界


 土曜日。

 今日は脅迫状に書かれていた金の受け渡しの日であった。


 弥生は、無視すると決めてはいたが、それでも緊張してしまい、昨晩はあまり眠れなかった。

 よほど眠そうな目をしていたのだろう。雅雄が仕事に出かける間際に「体調悪いのか?」と心配されるほどだった。そのときは「そんなことないわよ」と無理に笑ってみせたが、実際には眠気で脳が歪んでいるような感覚だった。


 幼稚園が休みの礼雄が、いつもより遅めの朝食を終えたのを確認すると、リビングのソファーで横になる。ただ、ケンジの様子を確認しにいった笹野から連絡がくるのを待たなくてはならないので、眠るわけにはいかなかった。


 弥生は、礼雄が口を開けながら観ているテレビアニメをただボーッと眺めていた。

 目が痛くなるような色をした髪の毛のキャラクター達が、トレーディングカードゲームで遊ぶ話のようだが、弥生にはなにがなんだかさっぱりわからない。


 それでも礼雄には面白いようで、目はテレビ画面に釘付けであった。

 主人公であろう青い髪の少年が、なにやら長ったらしい名前を叫ぶと、鎧をまとった騎士がカードから飛び出る。その騎士が、相手方のドラゴンに斬りかかったところで、弥生の上瞼はすい寄せられるかのように下瞼にくっついていた。

 そして、抵抗する間もなく深い眠りへと誘われていった。


 ――どのくらい眠っていたのであろうか。


 ふと気がつくと、部屋はすでに薄暗く、窓から見える空は赤みを帯びていた。差し込む光も不自然なほどに赤く、リビングにある家具などを朱色に染めていた。

 赤い光と黒い影。それらを見ていると、否が応でも心がざわついてしまう。


 今、何時なのだろう。


 当然の疑問が頭に浮かび、壁に掛けられた時計を確認する。

 だが、弥生の目にはいったのは異様な光景だった。

 時計には、いつもは存在する長針と短針がなく、今が何時だかわかりようがない状態だったのだ。ただ、秒針だけはそこに残っており、十二個の数字が書かれた円を忙しそうに駆け回っていた。


 意味不明な状況に弥生は混乱し、辺りを見まわす。

 テレビはつけっぱなしになっている。ただ、壊れてしまったのか、居眠りする前に流れていたアニメの青い髪の少年が、停止ボタンを押されたかのように画面いっぱいに映ったまま動かずにいた。


 庭に目を向けると、いつもは丸まっている柴犬のイチローの姿や、渋谷家のシンボルともいえる柿の木がない。それどころか、庭自体がない。そこに広がるのは、ただただ赤い荒野。そんな景色を見ていると、まるでこの世のすべてが赤い光に溶けてしまったかのように思えた。


 そして一番大切なことに気づいた。こんな狂った現状の中、礼雄の姿が見えないのだ。


「礼雄!」


 思わず大声で叫んでいた。弥生にとって、礼雄は幸せの象徴ともいえる子なのだ。絶対に失うわけにはいかなかった。


「礼雄! 礼雄! 礼雄!」


 歪んだ家具が並ぶなか必死で息子を探し回るが、いっこうに見つからない。


「礼雄ー!」


 一階に探すところがなくなったので、足を乗せるとブヨブヨと沈む階段を上り二階へと向かう。


「れぇーおー!」


 これ以上ないくらいの大声を出しながら寝室に入ると、すぐ後ろから「ママ―」と息子の声が聞こえた。


「もう、礼雄。どこいっていたのよ」


 弥生はその声に心から安堵し、後ろを振り返る。だが、弥生の目の前にいたのは、愛らしい我が子などではなかった。


 つるつるのスキンヘッドに彫りの深い顔。そう、そこにいたのは紛れもなくケンジであった。まるで葛貫のような不気味な笑みを浮かべながら、ジーッとこちらを見ている。


 なぜケンジがここにいるのか。金の受け渡しをすっぽかしたことを怒っているのだろうか。そもそも、礼雄はどこにいってしまったのだろうか。

 本当は悲鳴をあげたいほどの恐怖を覚えていたのだが、それ以上に理解不能なことが多すぎて、弥生は黙ってケンジの様子を窺うことしかできなかった。


 ケンジは襲ってくることもなく、ただ媚びを売るような笑みでこちらを見つめている。そして、ゆっくりと口を開いてこういった。


「ママ―。お腹すいたー」


 礼雄の声だった。

 訳がわからなかった。一番憎い存在のケンジの姿から、一番尊い存在の礼雄の声が発せられているのだ。こんな矛盾した世界が現実であってはならない。こんなのは悪い夢だ。夢だ夢だ夢――


「ママー。お腹すいたってばー」


 ハッと目を覚ますと、礼雄が覗き込むようにこちら見つめている。体を起こし、辺りを見まわす。テレビは正常に動画が流れており、庭には柿の木があって、その根元にはイチローが丸まっている。なにより、差し込む光は赤くなどなかった。


 どうやら、先ほどのことは本当にただの夢だったらしい。


 弥生は額にびっしょりとかいた汗を手首で拭うと、掛け時計に目をやった。

 午後2時。礼雄がお腹をすかせるのも無理がない時間であった。


「ごめんね。すぐに用意するから」


 弥生はそういってすぐに立ち上がる。すると、タイミングを見計らっていたかのように部屋に電話のコール音が鳴り響いた。

 悪い夢の後だったので、思わず「ひっ」と小さな悲鳴をあげてしまう。それでも、すぐに笹野からの報告の電話だと気づき、急いで受話器をあげた。


「もしもし」


「笹野です。連絡が遅くなって申し訳ない」


「いえ。それで、ケンジは?」


「はい。ケンジらしき人物はジェイソンに十時半頃にやってきましたよ。そして、一時間ほどしたら諦めて帰って行きました」


「そうですか……。ケンジはどんな様子でしたか? 怒ってはいませんでした?」


 やはり一番心配なのは、金の受け渡しをすっぽかしたことによって、ケンジが逆恨みすることだった。


「うーん。遠目ではありますが、怒っているというよりは落胆しているといった感じでしたね。今日の様子を見る限り、渋谷さんになにか嫌がらせをするとは考えにくいと思いますよ」


 あんな夢を見た後だったのでケンジがなにかしてくるのではないかという不安が大きかったが、信頼できる笹野の言葉なのですんなりと信じることができた。


「私は、これからどうすればいいでしょうか?」


「とりあえず、このまま沈静化する可能性が高いので、なにも行動を起こさないほうがよろしいかと思います。大丈夫、なにも起きやしませんよ。万が一なにかあったら、すぐに私に連絡してください」


「わかりました。今日は本当にありがとうございました」


 そういって通話を終えると、すっかり安心した弥生は再びソファーに倒れ込んだ。先ほど四時間以上寝ていたはずだったが、悪夢を見たためか未だに眠気がカビのように弥生の脳の中にこびりついていた。

 そういうわけで、微睡みを楽しんでいたのだが、礼雄が近づき弥生を現実に戻す一言を放った。


「お腹すいたってばー」

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