新たな脅迫状


月曜日。


「なんだか機嫌がよさそうだな」


 いつも通り玄関で送りだそうとしたところで、不意に雅雄がいった


「そう? そんなことないんだけど」


「ふーん。ニコニコしていたから、なんかいいことがあったのかと思ったんだけど」


 雅雄は少し怪しむような目でこちらを見てくる。


 いいことはあった。

 だが、夫に話すことなどできるわけがなかった。なにせ、ケンジの脅迫からようやく解放されたという内容なのだから。


 ケンジから指定された金の受け渡しの日からすでに一週間以上たっていた。最初の数日間は、朝起きれば郵便受けに再び脅迫状がはいっているのではないか、買い物にでかければケンジが襲ってくるのではないかと、ビクビクしながら過ごしてきた。だが、今日にいたるまで、なにも起こることはなかったのだ。これはケンジも諦めたと考えていいように思えた。

 その間、笹野とは連絡を何度かとりあっていた。笹野はなにも起こらないであろうと推理してはいたが、心配もしてくれているようで、毎回「なにかあったらすぐ連絡をくれ」と念を押していた。


「いいことっていうか、あと一週間もしたら礼雄の幼稚園が夏休みだから、一緒に遊んであげられるなーって思ってね」


 弥生はそういって雅雄の勘ぐりに答えてやった。雅雄も納得したようで「ああ、もうそんな時期か」といいながら頷いている。


「いいなあ、俺も礼雄と遊んでやりたいよ。でも、夏休みの時期って子どもを狙った犯罪とか増えやすいから気をつけてくれよ」


「礼雄から目を離さないようにしておくから大丈夫よ」


「そういえば、一週間前に噂になっていた不審者の話を聞かなくなったな。笹野さんって人が定期的に見回ってくれてたおかげなのかな?」


「そうかもしれないわね。やっぱり、元刑事の人が近所に住んでいるって思うと安心するわ」


「元刑事ね……。一度会ってみたいな。なんか警察の裏話とかきけたりしてな。あ、でも、そういうのって一般人には話せないのかな?」


「どうなのかしら……。でも、いたって普通の人よ。あなたが時間をとってまで会う必要はないと思うわよ」


 笹野と政雄が接触するのは少し抵抗があった。笹野からケンジの脅迫のことがばれるとは思ってないが、夫に隠し事をしていたという罪悪感が膨らむためだ。


「そうか……。まあ、弥生のほうからよろしくいっておいてくれよ」


「わかったわ。ところであなた、時間は大丈夫?」


 弥生はそういって靴箱の上の置き時計を指さす。


「いけね、こんな時間か。それじゃあ行ってくるよ」


 慌てた声を出しながら玄関を開けると、雅雄は小走りで会社へと向かっていく。そんな夫の様子を見て、弥生は幸せが舞い戻ってきたことを強く感じた。


「いってらしゃ――」


 背中にかけたその声は喉の奥で詰まったように途絶えた。そして、体から冷たい汗が吹き出すのを感じた。

 雅雄はそんな妻の異変に気づくことなく、家の前の丁字路の角を曲がって視界から消える。しかし、弥生の瞳の焦点は、そんな雅雄とは別のところに集中していた。


 郵便受け。


 今朝、新聞を回収して空にしたはずなのに、挟まっているのだ。茶封筒が。

 嫌な予感――いや、ほとんど確信に近いものが胸の奥に渦巻く。


 また、ケンジが入れたのだ。


 自然と震える体を必死で動かしながら郵便受けに近づくと、腫れ物をさわるようにおそるおそる茶封筒を手に取った。

 それは以前に投函されていたものと同じく、封筒自体には差出人も宛名も記入されていない。中をのぞき込むと、大学ノートのページを破ったものが四つ折りにして畳まれているのが見えた。


 弥生はゆっくりと中身を取り出す。


 ――許さない。


 文字は最初にもらったものと同じくでかでかと書かれていたが、以前のものとは違い破られたノートはその一枚しか入ってはいなかった。それでも、弥生の恐怖を煽るには十分すぎる内容だった。

 はっと、この前ケンジが立っていた路地を目を向ける。だが、そこに人影はない。弥生はほっと安堵のため息をつく。もしケンジがそこに立っていたとしたら、悲鳴を押さえる自信はなかった。


「どうしたのー?」


 突然、背後からこえがかかった。


 殺される。


 瞬間的にそう思った弥生は、不意に天敵に襲われた草食動物の如く飛び退くと、最大限の威嚇を見せるために目を見開いて声の主を睨みつける。


 だが、そこにいたのは脅迫者のケンジではなく、母親の奇怪な行動に目を丸くしている礼雄であった。


「……ママ?」


「なんでもないわ。大丈夫よ」


 なんとか取り繕うように笑みを浮かべるが、頬の筋肉がヒクヒクと痙攣してうまく笑うことができなかった。


「……ほんと?」


「本当よ。礼雄こそどうしたの?」


「……お着替え、練習したいの」


 遠慮がちにそういうと幼稚園の制服を差し出してきた。

 一週間前から、毎朝の日課に礼雄の着替えの練習が加わっていたことを弥生はようやく思い出した。


「ああ、そうね。そんな時間だもんね」


 茶封筒をエプロンのポケットに捻り込ませると、礼雄と共に家の中へと戻る。本当はこの場で発狂したいくらいに精神は黒く犯されかけていた。だが、母親としての自尊心が、息子の前で取り乱すことを抑制していた。


 礼雄の着替えの練習の間、頭の中ではこれからどうするべきかを考えながらも、表面は子どもを見守る母親の顔をつくる。葛貫を殺したときに嘘の顔を作るのはなるべくやめようと決めたはずなのに、葛貫を殺してしまったからこそ、息子の前で嘘の顔をしなくてはいけないなんて皮肉だと思った。

 礼雄が制服のボタンと悪戦苦闘しているのをぼんやり眺めながら出た結論は笹野に相談するということだった。結局、自分だけではどうしようもない。笹野というたったひとりの味方にすがるしか方法がないように思えた。


「えきたー!」


 不意に礼雄が嬉しそうな声をあげる。


 見てみると、ひとつだけではあったが制服のボタンがきちんと留まっていた。


「ママ。見てたぁ?」


「うん。よく頑張ったわね」


 見ていなかった。息子の成長の一歩を見逃してしまった。これもケンジと葛貫のせいだ。葛貫が死ななければ、ケンジが今更脅迫してこなければ、平凡な幸せが続いていたはずなのだ。


「さすが、もうすぐ一年生だね」


 弥生は、沸き上がる怒りを胸に隠しながら、礼雄の頭をくしゃくしゃと撫でてやった。

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