鍵交換
あと五分で12時になる。
弥生は訪問客がくるのを、今か今かと待ちわびていた。その客というのは、笹野の知り合いの鍵屋で正午に渋谷家にくるという話であった。
なぜ鍵屋なのか。それは今朝、礼雄を送り出してからすぐに笹野へと電話をしたことから始まる。
「うーむ。最悪な事態になってしまったかもしれないですね」
再びケンジからの脅迫状が届けられたことを伝えると、笹野は深刻そうな声を出す。
「脅迫状を再び送ってくるなんて……。彼――ケンジは自暴自棄になってしまっているのかもしれませんね」
「自暴自棄?」
「ええ。もしかしたら、ケンジにとって渋谷さんの脅迫が金策の最後の砦だったかもしれないということです。ですので、あなたが金の受け渡しをすっぽかしたことによって、最後の頼みの綱が切れてしまった。そして、逆恨みで渋谷さんに再び脅迫状を送ったと」
「だって、笹野さんが無視をしろっておっしゃったから……」
「その通りです。その点に関しましては、私の予想が足りなかったと思っています。すいません」
「……いえ。こちらこそ、相談にのっていただいているのに、笹野さんを責めるような言い方になってしまって申し訳ないです。それで、私はこれからどうしたらよいのでしょうか?」
「そうですね。本来なら、すぐにでも渋谷さんのお宅に伺いたいところですが、あいにく、今日、明日と、はずせない用事がありまして難しいんですよ」
「そんな……」
頼りにしていた笹野に見捨てられてしまっては為すすべがない。弥生は呆然としてしまった。
だが、考えてみれば一週間以上もなにもなかったのだ。笹野だって安心していたのかもしれない。
「そんな声を出さないでください。自暴自棄になっているとはいっても一時的なものかもしれません。ですので、今まで通りようすをみたほうが吉だと、私は思っています」
「でも、脅迫状が再び届いたのになにもしないなんて不安です」
「それはごもっともですね……」
そういうと、笹野は数秒の沈黙した後にこう質問してきた。
「渋谷さんのお宅の玄関の鍵は、縦穴式のシリンダーでしょうか?」
「縦穴っていうと、差し込み口が縦になっているってことですよね?」
「はい」
「でしたら、その通り縦穴式っていうやつです」
「なるほど。それはあまりよろしくないですな。もし、ケンジという男がピッキングの心得があるようでしたら、そんな鍵では数分、手練れなら数秒で開錠してしまう可能性があります」
笹野にそういわれて、夕方のニュースで元空き巣の肩書きをもつ人物が頑丈そうな鍵をいとも簡単に開けるようすを流していたのを思い出した。そういった技術をケンジが拾得している可能性があるかもしれないというのだ。
最後に見たケンジの姿を思い起こす。つるつるのスキンヘッド、頬がこけた顔、そして赤いアロハシャツ。どう見ても、まともに仕事をしている人間の姿ではないように感じる。そもそも、まともに働いていたら、闇金に追われるはずなどないであろう。つまりは、ケンジがピッキングの技術を拾得していることは、十分にあり得る話であった。
「もし、そんな技術をケンジが会得していたら、鍵なんてかけても意味がないってことですか?」
この電話をしている最中にも、もしかしたらケンジが押し入ってくるかもしれないのだ。そう考えただけで、弥生はこの家から飛び出したい気分だった。
「意味がないということはないですが、縦穴式ですと不安が大きいかと思います。そこで、もしよろしかったらですが、私の知り合いに信頼できる鍵屋がいますので、彼を渋谷さんに紹介いたしましょうか?」
「本当ですか? そうしていただけると助かります」
「では、本日の正午にでも鍵屋を渋谷さんのお宅に向かわせますが、ご予定はありますかな?」
「今日ですか? 急な話ですね」
「ご都合があいませんかな?」
「いえ、私はかまいませんけどけど、鍵屋さんの予定を聞かなくても大丈夫なんですか?」
「心配いらないですよ。彼が私の頼みを断ることなんてないですから。もちろん、ケンジや渋谷さんの過去のことなどは秘密にしておきますのでご安心を」
「なにからなにまでありがとうございます。そういうことでしたら、その時間にお待ちしてます」
「私も明後日になったらお伺いさせてもらいます。それまでは、なるべくいつも通りの生活を心がけてください」
最後にそう忠告すると笹野は電話を切った。笹野が来てくれないのは心許ないが、その笹野が信頼できるといっている人物なのだ。変な人ではないだろう。
そして今、12時を迎えようとしていた。
長針と短針がちょうど重なりあった直後、家のインターホンが鳴り響く。
弥生はすぐに玄関に走り、扉を開けると「ちわー、鍵屋っすぅ」と気だるそうな声が飛び込んできた。
やってきた鍵屋は二十代前半であろうか、茶髪で耳にはジャラジャラとチェーン状のピアスをぶら下げており、鍵屋というよりは街にたむろするチーマーという印象を受けた。
なにかの間違いかと思ったが、玄関前に停められていた車と、青年の作業着に「キー・レスキュー」と店のロゴが刺繍されていたので、彼が笹野のいっていた鍵屋で間違いないのであろう。
笹野は信頼できる人物をよこすといっていた。だが、弥生には目の前の男がそれに値するようにはどうしてもみえなかった。
「あ、……どうも。えっと笹野さんの紹介の方?」
「そうっすよ。あれ? 今日って話じゃなかったでしたっけ?」
「いえ、今日であってるんだけど……」
さすがに、想像していた人物と違うとはいえなかった。
「鍵の交換でいいんすよね?」
鍵屋の青年は、動揺している弥生を気にするでもなく早速玄関の扉を大ざっぱに確認する。その後、車に一度戻ると薄汚い工具箱を取り出して、またこちらにやってきた。
「ちょいと時間かかるんで、待っている時間テレビでも見ててください」
「いえ、せっかくだから作業を見学させてもらうわ」
「そうっすか? おもしろいもんじゃないっすよ」
正直、彼のことをあまり信用していないということもあり、きちんと仕事ができるのか確認してみたかった。
だが、予想に反し青年の作業は素人目でも素早く的確で、笹野が信頼できるといっていたのも納得がいった。作業は滞りなく進み、二十分後には弥生はピカピカに輝く新しい鍵を手渡されていた。
「すごい。こんなに早く終わるものなのね」
「いや、別にこれくらい普通っすよ」
謙遜するものの青年の顔は子どものようにほころぶ。弥生は、それを見てようやく、彼が見た目ほど悪い人間ではないということがわかった。
「そういえば、お値段はおいくらなのかしら?」
そういってやっよいが財布を取り出しすと、青年はそれを制するように慌てて首を横に振った。
「いやいや、笹野さんの知り合いからお金なんて貰えないっすよ」
「え、でも……」
「俺は、笹野さんのおかげでこうして真っ当な仕事をして生きていけてるんすよ。そんな笹野さんの知り合いから料金は受け取れないっす」
「本当にいいの?」
「はい」
「ふふっ。それじゃ、お言葉に甘えさせてもらおうかしら。あなたは本当に笹野さんのことを慕っているのね」
「うーん、慕ってるつーか、恩人なんすよ」
「恩人?」
「そうっす。笹野さんがマル暴だったのは知ってるっすよね?」
青年の口から聞き覚えのない単語が出てきたので、弥生は首を傾げた。
「マル暴って? 元刑事って聞いているけど」
「あ、マル暴ていうのは、暴力団専門の刑事のことっす。当時の笹野さんは鬼みたいに怖かったんすよ。ヤクザ相手に一歩も退かないんすから」
青年は自分のことのように嬉しそうに話す。
しかし、あの笹野が暴力団と渡り合っていたとは、にわかには信じられなかった。あんな小柄な体では、暴力団どころか一般人にも負けてしまいそうに思えたからだ。
「実は俺って十代の頃、空き巣みたいなことやっていたんすよ。で、いきがってたっていうのもあって、暴力団の事務所に盗みに入ったことがあったんすよ」
青年は昔を懐かしむかのように目を細める。
「だけど、すぐに捕まっちゃって。もう、ボコボコにされてひどいもんしでたよ。俺、このまま殺されるのかなとか思ってました」
そういって気にするようにチラリとこちらを窺った。
自分が元犯罪者だということを話しているのだ。相手の反応が気になるのであろう。弥生はなんて答えたらいいかわからず、曖昧に頷いておいた。
青年は少しほっとした表情を見せると話を続ける。
「そんな時、笹野さん達マル暴の刑事が事務所に乗り込んできたんすよ。なにか別件で乗り込んだらしいんすけど、逆上した相手のヤクザ共を簡単に伸しちゃって、俺は命からがら助かったんす」
青年はしゃべりながら、ビュッとパンチを放つ仕草を見せた。
「まあ、俺も鬼のように怒られて、少年院にも入っちまったんすけどね。でも、笹野さんはその後も、今の仕事を紹介してくれたり、俺のことを気にかけてくれてるんすよ」
「そんなことがあったの……」
「あの人がいなけりゃ、今の俺はいないんす。だから俺、笹野さんのためならなんだってやれるんす。……あ、笹野さんに恩人っていったこと内緒っすよ。恥ずいんで」
そういって鍵屋の青年は照れたように笑った。
「わかったわ。内緒ね」
弥生は青年の笑顔を見て心が暖かくなった。本当に笹野を尊敬しているのが強く伝わったからだ。
命の恩人というのであれば、笹野の紹介だからという理由だけで無料にするといってくれるのも納得がいく。弥生は笹野の人望の厚さに感謝した。
その後、鍵屋の青年は、玄関だけではなく窓も防犯対策をすることを提案した。弥生のほうもケンジの驚異から少しでも解放されるならと思い、それを受け入れる。
鍵の取り付けと同様に慣れた手つきで次々に部屋の窓ガラスに作業を済ませていく。そして、最後のフィルムを貼ろうとダイニングに入ると、青年は庭の柿の木に気づき興味深げに眺めた。
「立派な柿の木っすね」
「そうでしょ? 毎年、結構実るのよ」
「いいっすね。俺、柿好きなんすよ」
「残念。時期が少し早すぎたわね。秋に来てくれたらお裾分けできたのに」
「じゃあ、秋になったらまた鍵交換してくださいね」
過去の話をして少し打ち解けたようで、青年は笑いながら冗談を飛ばした。
弥生も、初めて顔を合わせた印象よりもずっと青年のことを好意的に思っていた。青年の笹野に対しての強い信頼を知って親近感を覚えたというのも、その感情を助長させた。
「あ、犬もいるんすね」
「そうなのよ。柴で名前はイチローていうの。でも、しつけが悪いからか、知らない人にはすぐ吠えちゃうのよね」
話題にあがった当のイチローは、暑さのためか、しっぽだけこちらに向けて犬小屋の中で丸まっている。
「うへー。じつは俺、犬って苦手なんすよ。あ、別に元空き巣だからってわけじゃないっすよ。小さい頃に噛みつかれてからダメなんすよ」
青年は少し恥ずかしそうに舌を出す。
「はい。これで終わりっす」
「じゃあ、こっそり柿を盗みにもこれないわね」
「ははは。そうっすね」
話をしながらも作業を進めていた青年は、すべての作業が終わった合図かのように両腕を腰にあて背筋を伸ばした。
弥生は防犯フィルムの件はさすがにお金を払うと申し出たが、またしても「笹野さんの知り合いからは受け取れません」と、これらもすべて無償でやってくれた。総額いくらぐらいかかったかは定かではないが、決して安くはないことは明らかである。
帰り際、どうしてもお金を受け取ってくれない青年に、母親から送られてきたみかんをビニール袋に詰めてわたしてあげた。まったく対等な報酬とはいえないものだったが、青年は「いいんすか? 俺、柿も好きっすけど、みかんも好きなんすよー」と笑顔でそれを手にしてくれた。
青年を見送った後、改めて玄関の鍵を確認する。以前とは違い、シリンダーは横を向いている。見た目の違いはたったそれだけであったが、青年いわく、相当な手練れでも開錠させるのに二十分以上はかかる代物らしい。
これならば、いくらケンジでもこの家に侵入することは不可能になったであろう。つまり、自分自身も家から出なければ絶対に安全というわけである。
二度目の脅迫という根本的な問題は解決してはいないが、絶対に安全な場所を確保できたことで気がずいぶん楽になったように思う。この調子ならば、ケンジの脅迫に屈することなく立ち向かえる気がしていた。
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