ひずみ
火曜日。
昨晩は脅迫状のことがが気がかりであまり寝付けずにいた。そのため、今朝はあくびをかみ殺しながら礼雄の弁当を作っていた。
ケンジがなんらかの行動にうつしてくるのではと予測していたが、昨日は朝に脅迫状が入っていた以外に変わったことは起こらなかった。やはり、一回目の脅迫状と同じくただのこけおどしでしかないのだろうか。しかし、弥生にはケンジがこのまま引き下がるようには思えなかった。
どちらにしろ今日さえ乗り切れば、明日は笹野が来てくれる。そして、素晴らしい助言をしてくれると信じていた。
「しかし、昨日はいきなり鍵交換されてて驚いたな」
雅雄が新聞に目を向けながら声をかけてきた。
またか。
弥生は夫に聞こえないように、そっとため息をつく。なんの了承もなしに鍵を取り替えたことがよっぽど気に食わなかったのか、雅雄は昨晩から、このことについて何度も嫌味をいってくるのだ。
「ごめんね。なにか連絡しておけばよかったわよね」
「まったくだな。帰ってきて鍵穴が合わなかったから、家を間違えたのかと思ったぜ」
「前に不審者の噂もあったしさ」
「なるほど、俺を不審者だと思ったわけか」
非がこちらにあるのは承知だが、謝っているのにネチネチといわれたらさすがに頭にきてしまう。それでも怒りをぐっと抑えたのは、感情に身を任せてケンジのことを話してしまいそうだったからだ。
「だから、ごめんってば。でも、笹野さんが紹介してくれたおかげで全部タダでやってもらえたのよ」
「笹野さんねぇ……」
雅雄はそういうと鼻で笑った。
「なんでそんな言い方するの?」
親切にしてもらっている笹野までバカにした態度をとるので、弥生もさすがに反論を試みる。だが、この夫婦のいざこざはすぐに途切れることになった。というのも、礼雄が「おはよー」と目をこすりながらリビングに入ってきたのだ。子供の前で夫婦喧嘩することは弥生は避けたいと思っていた。
「おはよう。今日もひとりで起きられたのね」
「お、礼雄、さすがもうすぐ一年生。えらいぞ」
雅雄のほうも考えは同じようで、読んでいた新聞を畳むと笑顔で息子の頭を撫でる。だが、その顔はすぐに曇った。
「あれ? お前、体が熱いな。熱でもあるんじゃないか?」
「え、本当に?」
弥生はすぐに礼雄の額に手をあてる。
「本当、ちょっと熱っぽいわね。ほら、脇あけて体温はかるから。頭は痛くない?」
「んーん、痛くない」
そういって、くすぐったそうに体温計を脇に挟み込む。その様子はいつもの無邪気な息子に変わりないものの、頬はほんのりピンク色に染まっていた。
アラームのなった体温計を取り出し確認すると36度9分と、礼雄の平熱より0.5度ほど高い数値が表示されていた。
「やっぱり微熱があるみたいね」
「じゃあ、今日は幼稚園はお休みだな」
「幼稚園、あいてないの?」
礼雄はきょとんとした顔で尋ねきた。
そんな素直な反応に弥生は思わず失笑してしまう。雅雄もそれは同じだったようで、笑いをこらえるように肩を震わせていた。最後には、ふたりして声をあげて笑っていた。
先ほどまで険悪だった夫婦関係が、息子の一言で溶けるように穏和なものになっていた。
「違うわよ。幼稚園がお休みするんじゃなくて、礼雄がお風邪を引いているから、礼雄がお休みなの」
「そうそう。今日はおうちでゆっくり休んで、早く風邪を治すんだぞ」
「そっかぁ、わかったー」
礼雄はそういって右腕をピンと上に伸ばした。
「よし、えらいぞ」
雅雄は不意にこちらに体を向ける
「……さっきはちょっといい過ぎたと思ってる。悪かった」
ぶっきらぼうな物言いではあったが、それでも弥生には嬉しい言葉だった。そもそも、この家庭をケンジから守るために鍵を付け変えたのに、鍵を変えたことで雅雄と仲違いしてしまっては本末転倒なのだ。
「こっちこそ、勝手に鍵を交換しちゃってごめんなさい」
「今度からはなにかあったら俺にいってくれよ。家族なんだから」
「うん」
雅雄の優しさに目頭が熱くなる。だが、ケンジのことだけは話すわけにはいかない。雅雄だって、弥生の過去の罪を知ったら、その優しさを再びこちらには向けてはくれないに決まっているからだ。
「じゃ、俺はもう行かなきゃいけないから、礼雄のこと頼んだぞ」
「うん。いってらっしゃい」
「ああ、いってきます」
礼雄のおでこに貼る冷却シートを探していたので、リビングでというかたちになってしまったが、いつも通りの笑顔の見送りをすることができた。弥生はそんな当たり前の日常に戻れたことにほっとしていた。
雅雄が出かけてから数分後に、ようやく引き出しの奥にしまいこんでいた冷却シートを見つけると、すぐに礼雄に貼ってあげる。礼雄は「わー、冷たーい」と、無邪気にはしゃいでいた。
そんな息子を愛おしく思いながら、寝室まで連れて行く。
「じゃあ、今日はしっかり寝て風邪を治すのよ」
そういわれた礼雄は、すぐにベッドの中に潜り込むものの、すぐに掛け布団から顔だけ出すと「あつーい」と顔をしかめた。
七月の中旬なのだ。礼雄の不満も当然といえた。だからといって、冷房をガンガンにかけてしまっては風邪が悪化してしまう恐れがある。
「はい。これで気持ちいい風が入ってくるでしょ?」
仕方がないので窓を半分ほど開けてあげる。だが、その窓から入ってきた風は決して気持ちいいとはいえなかった。ねっとりと肌に絡みつき、汗腺をじわりと刺激してくるような感覚を与えるものであった。
「ぬるーい」
礼雄も同じように感じたようで再び顔をしかめる。
「我慢しなさい。早く風邪治すってパパと約束したでしょ?」
「はーい」
唇を尖らせながらも素直に返事をして、わざとらしくギュッと目をつむる。弥生はそんな我が子の頭を撫でてやると、おやすみのキスをしてあげた。
礼雄が満足そうに微笑むと、外から鯨の鳴き声にも似たクラクションの音が聞こえてきた。
「あ、送迎バスがきたみたいね。じゃあ、ママは小林先生に挨拶してくるから、ちゃんとひとりで寝ているのよ」
「えー! 礼雄も、せんせーに挨拶する」
小林先生と聞き、礼雄はさっきつむったはずの目をぱぁっと見開いた。
迂闊だった。小林先生なんてワードを使ったら、彼女にぞっこんの礼雄が飛び起きてしまうのは目に見えていたというのに。
「こらこら、風邪ひいているんだからちゃんと寝ていなさい」
かけ布団を蹴飛ばすように起きあがった息子の手首をつかむと、引き戻すようにベッドに転がした。
「挨拶したいのにぃ……」
「小林先生に風邪がうつったら大変でしょ? それとも礼雄は小林先生が風邪ひけばいいやって思ってるの?」
「思ってなーい!」
「でしょ? じゃあ、いっぱい寝て、早く風邪なんか治しちゃって、小林先生に会えるようにしなきゃ」
「……わかったぁ」
顔こそむくれてはいたが、素直にこちらの言葉にうなずいた。
少し前だと、駄々をこねて仕舞には泣き出すところであったが、弁当散乱事件の後からしっかりと弥生のいうことを聞いてくれるようになっていた。
息子の成長を少し誇らしく思っていると、せかすような二度目のクラクションが鳴らされた。
その音を聞いた弥生はお休みのキスをやり直してやると寝室に礼雄を残し、弾けるように玄関へと向かった。
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