幸せのために
「すいません。遅くなって」
「あ、礼雄君のお母さん。おはようございます」
インターホンを押すところだったのだろう。小林先生はすでにバスを降りており、門扉の前で弥生を出迎えた。
「あれ? 礼雄君は?」
いつもなら、すぐに礼雄が元気な挨拶とともにバスに駆け込むので、小林先生は不思議そうな顔をしていた。
「それが、ちょっと風邪をこじらせてしまったようなんですよ」
「えー! それは大変ですね」
小林先生はドングリのように丸い目をさらに丸くして驚く。
「あ、風邪っていっても微熱程度なんですけどね。ただ、他の子にうつってはいけないので本日はお休みさせていただこうと思ってます」
「はい、わかりました。夏風邪は長引くっていいますからね、安静にしてゆっくりと治してあげてください」
「ありがとうございます。でも、ごめんなさいね。今朝、急に熱をだしたもんだから、連絡しそびれてしまって」
「いえいえ、風邪をひくかは事前にわかることではないですから、しょうがないですよ」
ここで弥生はふとあることを思いついた。
一番最初にケンジの情報を弥生に伝えてくれたのは、小林先生であった。普段ならそういった話はアンテナさんから教えてもらうことが多いのだが、園児を預かる立場として、不審者などの情報はいち早く舞い込んでくるのであろう。
それならば、新たな情報があるのではないだろうか。ケンジは再び動き始めたのだ。小林先生がなにか情報を得てる可能性は十分にあるように思えた。
「そういえば、以前お話しされていた不審者の件って、その後どうなりました?」
「それが、一週間ほど前からめっきり目撃情報もないんですよね。もしかしたら、もう現れないかもしれないですけど、それでも礼雄君を外で遊ばせてあげる時は注意してくださいね」
「そうですか……。じゃあ、新しい不審者情報なんかは?」
「新しいですか? そういった話も聞かないですね。……礼雄君のお母さんは、そういった人を見かけたのですか?」
小林先生はきょとんとした顔をしながら尋ねる。
それは怪しんでいるとか、いぶかしんでるとかそんな類ではなく、純粋に心配しているものなのであろう。だが、そうとはわかっていても弥生は動揺を隠しきれない。なにせ、自分もその当事者となっているのだ。
「あ……、いえ、なんでもないんです。ただ、どうなったのかなって思っただけなんで、なにか見たとかそういうわけではないです。はい」
「そうですか? でも、なにかありましたらご相談に乗りますからね」
自分でもしどろもどろな誤魔化しだったように思ったが、小林先生はこれ以上深くは追求してこなかった。おそらく、次の園児の迎えの時間がせまっていたためであろう。一言だけ「お大事に」というと、そそくさと送迎バスに乗り込んで去っていった。
しかし、不審者情報がないということは、ケンジは今回は慎重にことを進めているということなのであろうか。ただ、よくよく考えてみると、すでにターゲットである渋谷家を発見しているため、近所の郵便受けをあけたりなどの目立つ行為をしなくていいのだから情報としてあがらないのも当然のようにも思える。
「ふぅ」
今日は礼雄が熱を出してしまったため、脅迫状の有無をまだ確認していない。弥生はため息をつきつつ郵便受けをチラリと見やる。
予想通りそこには茶封筒がはみ出していた。
――絶対に許さない。
中身は相変わらず同じで大学ノートが一枚入っていた。内容もほとんど同じで、さすがに昨日ほどのショックは受けなかったものの、嫌な気分にはなってしまう。
それでも、弥生が今までへこたれなかったのは、ひとえに守りたい家族があったからだ。夫と息子との平凡で幸せな家庭を守るためならば、ケンジにだって立ち向かえる。
気合いを入れ直すように「よし」と一言つぶやくと、幸せの象徴が素直に眠っているかを確認するため、寝室へと戻った。
暑い、ぬるいと文句を垂れていた礼雄だったが、弥生が寝室へ入った時にはすでに寝息をたてながら眠っていた。その寝顔は安心しきった無防備なもので、見ている弥生も脅迫のことなど忘れてしまいそうになる。
だが、実際はかなり危険な状況だ。もしケンジがさらに突っ込んだ行動をとったら、息子の寝顔を見て微笑むなんてことができなくなるかもしれない。それだけは防がなくてはいけなかった。
かといって、こちらから動くのは得策ではないと笹野もいっていた。それに、ケンジも脅迫状を出すくらいで、それ以上のことはしてこないようにも思えた。なにせ、派手な行動を起こし警察沙汰になったら困るのはケンジ自身なのだから。
大きく深呼吸をして焦る気持ちを鎮める。
とにかく、明日には笹野が来てくれる。それまで日常をいつも通りすごせばいい。弥生は掃除や洗濯、買い物といった今日やるべきことをひとつひとつ頭に思い描いた。
裏側にある脅迫の事実を雅雄や礼雄に感づかれないように、平凡に過ごすのだ。
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