侵入者

 いつも通り過ごすと決めた弥生は、掃除や洗濯などの家事をおおかた片づけるとお昼過ぎにスーパーへと買い物に出かけていた。

 礼雄を家にひとり残すのは多少心配ではあったが、朝からぐっすりと眠っていたので起こすのもしのびなかった。そもそも、家の防犯設備は昨日取り替えたばかりなので問題ないであろう。ケンジだろうと、泥棒だろうと侵入するのは不可能と思えた。

 そうとわかっていても、帰り道の足の歩が速くなってしまあうのは母親のさがというものであろうか。


 それにしても今日は暑い。


 真上に白く輝く太陽はとめどなく地上を照りつける。アスファルトはその光を吸収して、まるで焼かれた鉄板のように熱気を帯びていた。

 当然、その上を歩いている弥生の体はその熱を全身で受け止めているわけで、歩を進めるたびにポタポタと額から汗がこぼれ落ちていた。膨らんだ買いもの袋を両手にぶら下げているため、目尻に流れ込む汗をぬぐうこともままならない。


 これは帰ったらすぐにシャワーを浴びなければいけないな。


 家の前につく頃には、早歩きの理由が礼雄が心配だからというよりも、一刻も早くこのべたつく汗から解放されたいからというものにすり替わっていた。

 きらきらと輝く真新しい鍵をつかって玄関の扉を開錠する。ガチャリという重々しい音が、部外者の進入を防ぐ証明のように感じた。

 雅雄は不満そうな顔をしていたが、やはり鍵を新しくして正解だったなと、弥生は気分良く扉を開けた。


「ママー、おかえりなさい」


 弥生が出かけている間に起きてしまったのであろう。家に入ると礼雄が二階から嬉しそうな声とともにおりてきた。その顔を見る限り、体調はよさそうであった。


「あ、起きちゃってたのね。ごめんね、礼雄が寝ている間にお買い物行ってて」


「んーん」


「ひとりでお留守番できるなんてすごーい。さすが一年生」


「んーん」


 その「んーん」がなにを指しているのかいまいちピンとこなかったが、それよりもこの汗だくの体をシャワーですっきりさせたかった。そのため、礼雄の言葉を気にすることもなく、スーパーで買った食品を冷蔵庫に乱暴に詰め込み始める。奥から流れる冷風で少し涼みながらも、買ってきたヨーグルトを礼雄へと差し出した。


「はい、これ。ひとりでお留守番していてくれたから、ご褒美」


 本当はご褒美なんかではなく、風邪気味だからという理由で買ってきたものであったが、母親としての経験から、ご褒美といって渡したほうがより子供も喜び、今後も進んでお留守番をしてくれることを弥生は知っていた。


「え……、えも、いいの?」


 今日買ってきたのは、礼雄が好きな、フルーツのたっぷり入ったヨーグルトのはずだ。それなのに、礼雄は戸惑ったような表情でヨーグルトと弥生の顔を見比べている。


「どうしたの? ヨーグルトいらない?」


「んーん」


「じゃあ、どうしたの?」


 少しでも早くシャワーを浴びたい弥生は、少しカリカリしながらも息子の話を促した。


「あって……、お留守番、ひとりえやってないから」


「え?」


「ひとりえやってないから」


 礼雄は再び同じセリフを返してくれたが、弥生は聞き取れなかったわけではない。息子のいっている意味がわからなかったのだ。


「ひとりじゃなかったて、どういうこと?」


「禿のおいーちゃんと一緒あったの」


 礼雄の言葉を聞いた途端、体から吹き出していた汗が一瞬にして冷たいものへと変わっていた。


 ――禿のお兄ちゃん。


 弥生の知り合いの中で、その言葉に該当する人物なんてひとりしかいなかった。


「礼雄が起きたら、そのおいーちゃんがいて、少しだけお話してたの」


 そういって、礼雄は嬉しそうに笑う。その笑顔は本当に無邪気なものであったが、弥生にはなぜか恐ろしくみえた。


「あっ、えもママには内緒っていわれてたんあった」


 礼雄はしまったという表情を見せながら、自分の口を両手で押さえている。普段なら、そんな可愛らしい仕草に目を細めているところだが、今はそれどころではない。

 礼雄が会ったという人物はケンジとしか考えられない。弥生は、一週間前にみた赤い光と黒い影の夢を思い出していた。ケンジが侵入して不気味に笑う。あの夢が現実のものとなってしまったのだ。


 弥生は、ひとつ重大な点に気づいた。

 今、ケンジはどこにいるのか。

 弥生はそっと周囲を見渡す。だが、そこにはケンジの姿は見あたらない。


「礼雄! その人は今どこにいるの?」


「礼雄と少しお話したら……帰っちゃった」


 血相を変えた母親の表情に、礼雄は少しおびえた様子を見せるも、玄関の方を指さしながらそう答えた。


 意味がわからなかった。家に侵入しておいて、礼雄に見つかったからなにもせず帰ったというのであろうか。

 十年前、人殺しという十字架を背負ったもの同士だというのに、ケンジの考えていることがさっぱり理解できなかった。それでも、礼雄が嘘をつく理由などないのだから、ケンジはこの家に侵入して、すでに帰ってしまったのは間違いないのだろう。

 ケンジはここにはいない。そうわかっただけで、不安がほんの少しだけ和らいだ気がした。そして、今なにをすべきかを素早く考えた。


 とにかく、笹野に連絡をとろう。

 そう結論づけた弥生は、急いでダイニングテーブルの上にある電話の子機を手にすると、笹野の自宅に電話をかける。

 だが、コール音が何度かした後、留守番メッセージに切り替わってしまった。


 当然だった。笹野は、昨日と今日は用事があるからといっていたのだ。そんなことも忘れてしまうくらい、弥生は動揺していた。

 笹野に連絡する以外になにかするべきこと。電話を切りながらそれを考えるも、他になにも思い浮かばない。


 ケンジの侵入という恐怖と、これから先の不安と、自分の無力さが入り交じって、弥生の中で苛立ちとなって溢れてくる。


「ママ? 平気?」


 いつのまにか礼雄は食卓の自分の席に座って、先ほど渡したヨーグルトを食べている。それでも、母親の異変を不安に思ったのだろう。心配そうな声で尋ねてきた。だが、今の弥生にはそれすらも腹立たしく感じた。


「ママ?」


 弥生は息子の繰り返しの呼びかけを無視し続けた。


「ママってば」


 子供ながらの甲高い声が弥生の神経をさらに刺激する。


「マーマ!」


 ほとんど無意識だった。

 弥生は右手を高くあげると礼雄の左頬をめがけ振りおろしていた。

 バチンと乾いた音が部屋に響く。その音が聞こえて弥生は、ようやく自分が礼雄を叩いたことを認識した。


 カッと胃が燃えるように熱くなったのを感じた。それは、奇しくも十年前に葛貫を殺した際に覚えた、あの感覚と同じものだった。


 礼雄は、意外にも目いっぱいに涙をためるだけで、泣きわめくこともなく、ただ叩かれた左頬を両手で押さえていた。


「礼雄! 今度その男の人にあったらお話なんかしないで、すぐに逃げるのよ! わかった?」


 衝動的な暴力でしかなかったのだが、叩いてしまった以上その理由が必要だった。弥生は、頭の中で思いついたものから適当に選んで大声で怒鳴っていた。


「……ごえんなさい」


「ごめんなさいじゃないでしょ! わかったかって聞いているんだから、わかりましたかわかりませんで答えなさい!」


「……わかりました」


 礼雄は小声でそういいながら、下唇を深く噛んで必死で涙を流さないようにしていた。

 そんな息子の様子を見て弥生はぐっと息が詰まる。これ以上怒鳴ったら、弥生の中のなにかが弾けてしまいそうだった。そして、そのなにかを弾けさせてしまったら、今ある幸せは確実に壊れるであろう。

 そう思った弥生は、今度は一転して優しく礼雄にいった。


「……もういいわ。今度、その男の人が来たらすぐにママに知らせるのよ? ママがいなかったらすぐに逃げるの。いいわね」


「……はい」


 いつものように右腕を肩から垂直に伸ばすこともなく、礼雄はただつぶやいた。


「うん。じゃあ、礼雄は風邪をひいてるんだから、ヨーグルト食べたらまたお部屋で寝てるのよ」


 礼雄は「はい」と返事をしたものの、その後はヨーグルトに手をつけることなく、寝室へと戻っていった。叩かれ、怒鳴られた後に食欲がわかないのは当然とも思えた。

 しょんぼりとダイニングを後にする礼雄の背中を見て、ズキリと胸に痛みが走る。その姿が六年生の頃の自分自身とダブって見えたからだ。理不尽な暴力に母親である葉月を信じられなくなってしまった、あの時の自分と。

 我が子にはあんな思いをさせたりはしない。弥生は、礼雄を初めてこの腕で抱いた時そう決意していた。少しは怒ったりしたこともあったが、それでも殴ったり、蹴ったりなどの暴力でしつけをしたことは一切なかった。それなに、一時の感情に流されて礼雄を叩いてしまった。

 その決意を実現できなかったことに、葛貫を殺したときよりもずっと大きい後悔の念が弥生の中に生まれる。


 そもそも、弥生は子供に暴力を振るう人間は親になる資格なんかないと考えていた。テレビなどで虐待などのニュースが流れるたびに、親になることを免許制にでもしたらいいのにとすら思っていた。

 だが現状はどうだ。

 結局、弥生自身も無意識のうちとはいえ暴力に走ってしまった。そして、なにより恐ろしいのが、叩いた後に葛貫を殺した時とまったく同じ感情が弥生の体と渦巻いていたということだ。


 高まる鼓動。

 右手に残る痺れるような感触。

 礼雄の泣きそうな顔を思い起こすたびに、心地の良い息苦しさを感じる。


 そう。弥生は息子の頬をビンタして興奮していたのだ。もっと殴りたい、それ以上のことをしたい、愛する我が子にそんなことを思ってしまうほどだった。もちろん、その欲望に身を任せるたら待っているのは自己の破滅である。だからこそ、なんとか理性で押さえ込んだが、息子にそんな考えを持ってしまった自分が恥ずかしかった。

 すべてケンジのせいだ。ケンジが脅迫してこなければ、こんなこと考えることもなかった。憎い。憎い。殺したいほどに。


 弥生はぶるりと体を震わす。


 その震えが、汗で体がすっかり冷えてしまったためか、それとも自分自身の思考に恐怖を覚えたためだったのか、弥生にはわからなかった。

 ただ、自分の幸せがピキピキとひび割れを起こしているような気がしてならなかった。

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