第四章
心の痒み
水曜日。
「礼雄は熱下がらなかったのか?」
新聞を読む手を止めると雅雄は心配そうに弥生に尋ねる。
「うん。でも、微熱だし、礼雄自身も元気そうだから心配いらないわ」
今朝も礼雄の体温は36度8分と昨日とほとんど変化がなかった。そんな息子のため、弥生は蜂蜜をたっぷりと加えた生姜湯をつくっていた。
「そうか……」
頷いてはいるものの、雅雄はまだなにかいいたそうであった。
「どうかしたの?」
「実はさ、礼雄より、弥生のほうがちょっと心配でさ」
「えっ、私? どうして?」
不意に自分の名前が出てきて、心臓が跳ね上がりそうになる。だが、平静を装うために、きょとんとした顔をなんとかつくった。
「最近、お前ちょっと変じゃないか?」
「どういうこと?」
「だってさ、この前、蕎麦を食ってた時は会話の途中で急にヒステリックな声をあげるし、一昨日は急に鍵を交換しちゃったじゃないか。そりゃ、誰だってなんかあったのかなって思うよ」
「なにいってるのよ。怒鳴っちゃった時は頭痛がひどかったからで、鍵を交換したのはタダでできるからって、ちゃんと説明したじゃない」
鈍いと思っていたはずの夫がやけに鋭く指摘してきたので、弥生は内心ひやひやしながらも言い訳を述べた。
「そうなんだけどさ……。実は昨日、俺見ちゃったんだよ」
胃がキリキリと痛む。
いったいなにを見たのか。引き出しの奥深くにしまい込んだ脅迫状、ケンジの姿、はたまた礼雄を叩いたところを見たとでもいうのだろうか。
あれこれ考えても埒があかない。弥生は思い切って雅雄に尋ねた。
「見たって、なにを?」
「昨日の晩、俺や礼雄が寝静まってからも何度も起きて部屋を出入りしてたろ。あれ、なにをやってたんだ?」
事実だった。なにせ、昨日の昼はケンジが家の中まで侵入したのだ。うかうかと眠ってなどいられなかった。そのため、昨日の晩は弥生は定期的に起きては家の中を見回っていたのだ。
雅雄はぐっすり眠っているものだとばかり思っていたが、まさか見られていたとは思わなかった。とにかく、なにか言い訳を考えなくてはいけない。
「なあ。なにをやってたんだ。あんな真夜中にさ」
弥生は頭の中の引き出しをひっくり返し、その中から雅雄が納得しそうな言葉を素早く探し出す。
「なにって……、そんなのトイレに決まっているでしょ」
「何度も起きてたよな。トイレなら一回ですむだろ」
「ちょっと、私にその理由をいわせる気?」
「どういう意味?」
「もうっ。……便秘気味だったのよ。べ・ん・ぴ。ほら、私って昔から便秘症だったでしょ? 何回もトイレいったんだけど結局でないんですもん。嫌になっちゃうわ」
弥生は恥ずかしそうに顔を赤らめながらいう。
自分でもよくできた演技だと思った。これならば雅雄も納得してくれるではないだろうか。
「……ああ、そうだったけな。まあ、そういうことなら、一応わかったよ」
なんとか乗り越えたのだろうか。ただ、雅雄は「一応」を強調していた。ということは、完全に信じているというわけではないのかもしれない。夫が疑いを強める前になんとかケンジの一件を片づけたかった。
弥生は早く笹野に相談したいと思いながら、生姜をおろす。
「急に変なこと聞いて悪かったな」
「そんなこといわないで。あなたは私を心配していってくれているはわかっているわ」
「ああ。でも、なにか悩み事があるんだったら俺にちゃんといってくれよ」
「うん。ありがとう」
「……じゃあ、会社にいってくるよ」
弥生が玄関まで見送りをするために生姜をすりおろす手を止めてキッチンから出ようとすると、雅雄は右手を突き出しそれを制した。
「見送りはいいよ。礼雄に早くそれをつくってやってくれ」
「……そう。いってらっしゃい」
「いってきます」
最後は、なんともギクシャクとした会話となってしまっていた。
ムズムズと心が痒くなったように感じる。
その虫刺されのような痒みを振り切るために、マグカップの中のお湯と生姜と蜂蜜と、ちょっとの片栗粉を勢いよくかき混ぜた。だが、琥珀色をしたそれは、グルグルと渦を巻くだけで弥生の心の中に巣くうダニを駆除してくれることはなかった。
そうして完成した生姜湯を持って、礼雄が待っている寝室へと向かう。
扉を開けると、礼雄は上体を起こし弥生を出迎えてくれた。
「お待たせ。生姜湯を作ったわ。これ飲んだら風邪なんてすぐ治っちゃうわよ」
「ありがとー」
礼雄は枕をクッションにするようにして座ると、差し出されたマグカップを大事そうに両手で受け取る。そして、ゆっくりと生姜湯を口に含んだ。
「あち……」
「ほら、ちゃんとふーふーしなきゃ火傷しちゃうわよ」
「うん」
礼雄は素直に弥生のいうことに従って、口をすぼめてフーッと何度も息を吹きかける。そのたびに、生姜湯から立つ湯気が天井に舞い上がっては消えていった。
「おいしい」
礼雄は生姜湯をひとくち飲むと、そういって微笑んだ。だが、その表情はどこかぎこちなくも見える。やはり、昨日のビンタのことが尾を引いているのかもしれない。かくいう弥生も、我が子に対して多少の罪悪感を覚えてしまい、いまいちいつものように振る舞えずにいた。
「じゃあ、ママはお電話しなきゃいけないから、飲み終わったら目覚まし時計のところに置いといてね」
「うん」
「あと、今日はお客さんが来るから静かにしているのよ」
「お客さん?」
「そうよ。おまわりさんが来るの」
「おまわりさん? すごーい」
礼雄は興奮したように目をキラキラと輝かせて笑った。この年頃の男の子というのは警察官への憧れが強いらしく、礼雄の将来の夢も「おまわりさん」だったりする。
笹野は元刑事なのでおまわりさんというのは正確ではないのかもしれない。だが、幼い礼雄にはこのほうがわかりやすいだろうと思ったので、あえておまわりさんと伝えた。それに、昨日の一件以来、少し落ち込んでいる様子だった息子が笑ってくれたのだ。弥生にとってはそのことがなによりも嬉しかった。
「おまわりさん来たら、ご挨拶してもいい?」
「本当は寝てなきゃだめだけど、挨拶くらいならいいわよ。でも、それまではしっかり寝ているのよ」
本来なら、微熱とはいえ風邪を引いている息子を訪問者に会わせることなどしないのだが、せかっく礼雄が機嫌がよくなったのだ。ここで拒否をして、また先ほどのような暗い顔に戻ってしまうのは避けたかった。
「うん!」
礼雄は元気のよい返事を返してくれる。
弥生は、いつの間にか心の痒みがひいていることに気づいた。
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