カラス
笹野へと電話をかけようと思ったところで、弥生はあることに気づいた。今朝は生姜湯作りのためにずっとキッチンにいたので、まだ郵便受けに脅迫状が届いてるかを確認していなかったのだ。
憂鬱な作業であったが、避けていては脅迫状を雅雄に見つけられてしまうかもしれない。弥生は重い足取りで外へ出る。
そんな弥生の心とは反対に、空には透き通った青色が広がっていた。それでも、昨日よりも太陽の日差しは穏やかで、過ごしやすそうな天気といえるであろう。
大きく深呼吸をして、心地のよい空気を肺にいっぱいため込む。そうすると、なんだか心までもが、頭の上の空のように透き通っていく気がした。
大丈夫、脅迫状なんてただの文字だ。どんなひどいことが書かれていてもきっと耐えられる。自分にそう言い聞かせると、弥生は郵便受けを開けた。
すると、むせ返るような臭いが郵便受けから流れ出てきた。あまりにも強烈な臭いに背を向けたくなったが、弥生は勇気を持って臭いの発生源を確認する。
赤と黒。
郵便受けの中には脅迫状らしきものはなく、その二色で埋め尽くされていた。
また変な夢でもみているのかと思った。だが、おそるおそる右手を突っ込んで触ってみると、ぬるりと生暖かい赤色がまとわりついてくる。そのどこか懐かしくもある感触から、これが現実のものだということがわかった。
そして、この正体がなにかわかると、弥生は気を失いかけた。ぬるぬるとする赤い液体は血液で、黒い塊はカラスの羽毛だった。つまり、郵便受けの中には、切り裂かれたカラスの死骸が放り込まれていたのだ。
気を落ち着かせるために、弥生はもう一度深呼吸をする。だが、肺に入ってきたのは心地のよい空気なんかではなく、カラスの死骸が放つ血とゴミが混じり合ったようなキツい臭いがついたものだった。それでも、狂ってしまいそうな心をなだめるには十分だったようで、なんとか理性を保つことができた。
弥生は、この死骸の処理方法を冷静に考え始める。そして、今日が水曜日、可燃ゴミの日であることを思い出した。つまり、ビニール袋にでも包んで、他のゴミが入ったポリ袋の中に入れて捨ててしまおうという考えであった。臭いにしても、ゴミと一緒ならば紛れてしまうであろうし、完璧な作戦のように思えた。
弥生は携帯電話で現在の時刻を確認する。8時10分。この地区にゴミ回収車が来るのは、だいたい8時半頃なのでなんとか間に合いそうな時間であった。
早速、ビニール袋を用意し、その中にカラスの死骸を入れると持ち手を固結びできつく縛る。何枚ものビニール袋で、同じように二重、三重と繰り返す。最後は、今日捨てようと思っていた渋谷家のゴミとまとめて40リットルのポリ袋の奥の方に押し込み、再び固結びできつく縛った。
外からではカラスの姿はまったく見えない。臭いのほうも弥生が思っていた以上に外に漏れることはなく、これならばれることなく処分できるように感じた。
平静を装い、渋谷家のすぐ目の前にある地区のゴミ置き場へと、カラスの死骸入りゴミ袋を置いていく。弥生は学生時代に時々やっていた万引き行為を思い出していた。持っていくのと置いていくので違いがあるが、ばれたらどうしようというスリルと興奮がよく似ているように思えたからだ。
自宅に戻った弥生は、雑巾を取り出すと郵便受けにべっとりとついた血を拭き取っていた。その間に、ゴミ収集車が家の前に止まってゴミの回収をし始めた。作業員ふたりが、次々にポリ袋をゴミ収集車の中に放り込む。弥生はドキドキしながらその様子を眺めていた。
そして、作業員がカラスの死骸が混入しているゴミ袋に気づくことなくなく回収を終え、その場を後にしたのを見て、思わずほくそ笑んでいた。
「ママ―」
背後から聞こえた声にハッと我に返る。後ろを向くと、玄関の扉から礼雄が困ったような顔を覗かせていた。
「ど……どうしたのよ。ちゃんと寝てなきゃ駄目じゃない」
「あって、えんわが鳴っているんあもん」
礼雄のいうとおり、家の中からは電話のコール音が漏れ聞こえていた。
「あ、ごめんごめん」
弥生は慌てて家の中に戻ろうとするも、礼雄がなぜか玄関からどいてくれない。
「どうしたの? 電話切れちゃうからどいて」
「それなーに?」
礼雄の目線はまっすぐ弥生の右手、つまり血塗れの雑巾へと向けられている。弥生は慌てて背中に隠すも遅かったようで、礼雄は「ねえ、なーに?」としつこく問うてきた。
「これはただのペンキよ。お外がペンキで汚れていたから拭いていたのよ」
意味不明な言い訳だったかもしれない。それでも、雅雄のような大人ならともかく、礼雄くらいの幼い子であれば通じるかもしれないと思っていた。
「ふーん。そっかぁ」
そういって礼雄はにっこりと笑って道をあけた。
母親のいうことを信じてくれたのはわかっている。ただ、血を見た直後だというのに屈託のない笑顔を見せる息子に思わずぞっとしてしまった。
弥生はそんな気持ちを抱いてしまったことを息子に悟られないために、逃げ込むように家の中へと入っていった。
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