殺害計画


 弥生が笹野の家についたのは午前10時頃だった。


「やあ、いらっしゃい」


 笹野は優しい微笑みで弥生を出迎えてくれたが、その顔はいつもよりもどこかぎこちなくも見える。


「そういえば、今朝は脅迫状は?」


「それが届いていなかったんです……」


 カラスの死骸を含めて、四日連続で郵便受けになにかしらのものが入っていたというのに、今日に限ってはなにも入っていなかった。そうなると、普通はケンジに会いに行こうという思いも鈍りそうなものだが、弥生の決心が揺らぐことはなかった。


「そうですか。それでしたら、やはり様子を見るというのはどうですか?」


「いえ。今日で終わらせるって決めてきましたから。……では、早速ケンジの自宅へ案内してもらえますか?」


「そうですか……。わかりました。しかし、ケンジの家までは一時間ほどでつく距離なので、そんなに急がなくても大丈夫ですよ」


「でも……」


「大丈夫ですって。礼雄君が帰ってくるのはだいたい午後2時過ぎくらいでしたかな? それならば、まだ時間に余裕があります。お金もお渡ししておきたいですし、よろしければうちでお茶でもどうですかな?」


「はあ、そういうことでしたら……」


 弥生は渋々ながらも笹野の家にあがらせてもらうと、以前と同じように客間に通さ

れる。笹野はお茶を持ってくるといってすぐに姿を消した。


「あ、もしよろしければですけどー、昨日の残りの熊カレー召し上がりませんかー?」


 襖の向こうから、笹野の間延びした声が聞こえてきた。もしかしたら、こちらをリラックスさせようと、わざとそんな声を出しているのかもしれない。

 だからこそ弥生も「お構いなくー」と気の抜けたような声で答えた。


 しばらくして、笹野は麦茶を持って客間に戻ってきた。その腰には、なぜか紫色の大きめのウエストポーチがぶら下がっていた。お世辞にも似合っているとはいい難かったが、さすがにそのことを口にするほど弥生は無粋ではなかった。


「お待たせしました。しかし、熊カレーいらなかったですか? 腹が減ってはなんとやらといいますし、よろしければ是非」


「いえ、結構です。お腹は減っているんですけど、緊張しちゃってて今朝から食べ物が喉を通らないんです」


「そうですか。まあ、それならしょうがないですな」


 残念そうな顔をしながらも、弥生の正面にゆっくりと腰をおろした。


「さて、早速ですがこれを渡しておきましょう」


 そういうと笹野は例のウエストポーチから茶封筒をこちらに差し出した。

 弥生はケンジからの脅迫状かと思い、瞬間的に身を硬直させた。だが、その分厚さから、すぐにそれが昨晩の笹野との電話で話題にあがったものだとわかった。

 封筒を受け取るとずっしりと重く感じる。おそらく、質量とは別にその価値がプラスされているからであろう。そっと中身を覗いてみると、予想通り一万円札の束がひとつ窮屈そうに収められていた。


「お金まで貸していただいて、本当にありがとうございます」


「いえいえ、気になさらないでください。ケンジとの金の受け渡しの場に、私が立ち入ることはできませんから、これくらいしか渋谷さんの力になれんのですよ」


「そんなことありません。笹野さんは、いつも私にアドバイスをしてくれました。本当に感謝してます」


 弥生は深く頭を下げた。


「やめてくださいって。それに、そのお金だってすぐに返してもらうことになるかもしれないですし」


「え?」


 ――笹野って爺さんは間違いなくお前に惚れ込んでいるんだろうよ。


 この言葉とあわせて頭に浮かんだのは、体で返せとこちらに迫る笹野の姿だった。笹野には感謝をしてはいるが、さすがに肉体関係にまで至るのはまっぴらごめんである。弥生は、笹野に対し警戒の目を向けつつも次の言葉を待った。


「話し合いで和解できる可能性もなくはないですからな」


 笹野は、こちらの心配をよそにのんびりとした口調でそう答えた。


 なにを不安に思っていたのだろうか。仮に笹野がこちらに恋愛感情を抱いていたとしても、そんな下劣な行為をしてこないことなど、今までの彼を見ていたらわかりそうなものなのに。

 弥生は笹野のことを疑ってしまったことに対し、少し自己嫌悪に陥っていた。


「それに……」


 不意に笹野は声のボリュームを落とすと、真剣な顔つきになる。その眼差しは、いつもの穏やかな老人のものとも、時折見せる刑事のものとも違っているように感じた。感情の宿っていないガラス玉のような瞳であった。


「それに?」


「これを使ってもらう可能性もありますからね」


 そういって笹野がウエストポーチから取り出したのは、少量の白い粉が入った小さな瓶だった。


「これは?」


「……シアン化カリウムです」


「シアン化カリウム?」


「青酸カリといったほうがわかりやすいですかな」


 笹野の言葉を聞いて、弥生は自分の顔から血の気が引いたのがわかった。


 ――青酸カリ。


 その名前ならもちろん聞いたことがある。二時間のサスペンスドラマなどでよく耳にする毒物である。


「まさか、それでケンジを……?」


「……殺せとはいいません。決めるのは渋谷さんです」


「そんなこと……」


「いいですか? ケンジはあなたの飼い犬まで手に掛けています。だが、あなた自体にはなんの攻撃をしかけてきてはいない。つまり、弱いものから順に狙いを定めていることがわかります。これがどういうことかわかりますか? つまり、次に狙われる可能性が高いのは……」


「礼雄……」


「そうです。仮に礼雄君が殺されたことを考えてみてください」


 笹野はその光景を思い浮かべるように、静かに目を瞑った。

 弥生もそれにならうように目を閉じる。そして、息子がケンジに殺されたときのことを想像した。

 もし礼雄が、イチローと同じように腹を切り裂かれて殺されたとしたら。弥生は発狂しながら、はみ出た臓物を体内に押し戻すだろう。そして、そんなことをした憎き犯人、ケンジのことを絶対に許さないはずだ。息子と同じ目に、つまりは殺してやりたいと思ってしまうであろう。


「どうですか?」


 その問いかけに弥生はハッと我に返る。まぶたを開くと、感情の読みとれない顔で笹野がこちらを見つめていた。


「我が子を殺されて、犯人にも同じ思いを味わわせてやろうと考えませんでしたか?」


「それはそうですけど……。でも、お金さえ渡せばケンジだってそんな恐ろしいことしないんじゃないんですか?」


「そうかもしれません。だが、そうではないかもしれません」


「そんな曖昧な……」


「そうですね。ただ、ひとつだけいわせていただくなら、ケンジは一度あなたを裏切っているということです」


 その通りであった。十年前の約束を破って脅迫をしてきているという事実が、弥生の心を不安にさせていた。

 金を渡したとしても、また裏切られるかもしれない。今度は礼雄が殺されるかもしれない。笹野の話を聞いているうちに、そういった最悪な未来ばかりが頭にちらつくようになっていた。


「とりあえず、これは渋谷さんにお預けしておきます。使うも使わないも渋谷さん次第です。ただ、礼雄君が襲われてからでは遅いということだけは頭に入れておいてください」


 笹野はそういって、猛毒の入った小瓶を弥生の前に差し出す。

 弥生は少し躊躇いながらもそれを受け取ると、ハンドバッグにそっとしまった。


「取り扱いには十分に注意してください。当たり前ですけど、口にするのはもちろん、臭いを嗅ぐのも厳禁ですからね」


「……はい」


「ケンジに直接会うまでは決めにくいかもしれませんが、仮に渋谷さんが青酸カリを使うとしたらの話をしましょう」


 弥生は、笹野の話を促すようにコクリとうなづいた。


「青酸カリは速攻性の猛毒です。少量でも相手が飲み込めば、ほぼ確実に死に至らせることができます。それでも、ケンジが感づいたり、襲ってきたりした可能性も考えておいたほうがいいでしょう」


 ケンジを殺そうとしていることがばれたら、弥生は間違いなく返り討ちにあうであろう。ケンジは細身とはいえ男だ。力では太刀打ちできないのは確実であった。


「多少強引になってしまいますが、そんなときは大声で私を呼んでください。私はケンジの家の前で待機して、いつでも飛び込めるようにしておきます。そして、こいつで……」


 そういって最後にウエストポーチから取り出したのは、全長25センチメートル程、刃渡りだけでも15センチメートルくらいはありそうなナイフであった。シースにこそ包まれてこそいたが、見ただけで背筋が寒くなってしまうほどの驚異があった。


「こいつで私がとどめを刺します」


「そんな……、笹野さんにそこまでしてもらうなんてできません」


「いえ、私もケンジに対して怒りを覚えていますので、気にせんでください。それに、渋谷さんから脅迫状の話を窺ったときから、これくらいのことは覚悟しておりましたしね」


 笹野は決意を込めるように、ナイフの柄をギュッと握りしめた。

 確かに、このナイフで数回刺せば、命を絶つことなどたやすいことであろう。だが、なぜ笹野はここまでしてくれるのか。弥生にはそのことのほうが気になっていた。

 他人のために人を殺そうなんて考える人間など普通はいない。だが、その他人が自分が恋い焦がれている人間であったら話が変わってくる。


 ――笹野って爺さんは間違いなくお前に惚れ込んでいるんだろうよ。


 ここまでくると、雅雄の言葉に間違いないように思えた。


「そんなことまで考えていただいていたなんて……。私のためなんかにありがとうございます。笹野さんは、本当に私にとって父親みたいな存在です」


 感謝の言葉を述べつつも「父親」という言葉を強調した。自分は尊敬という意味での好意こそもっているが、異性としての好意は持っていないと伝えるためだ。

 笹野は、弥生の本音をくみ取ったのか、照れたように頭を掻きながらも、その顔はどこか複雑そうであった。


「まあ、これはあくまでも最終手段ですので、なるべくそうならないように渋谷さんには頑張っていただくことになりますな」


「はい」


「本当は、もう少し時間をかけて解決したい問題でしたが、仕方がありません。今日ですべてを終わらせましょう」


 笹野の言葉に弥生は力強く頷いた。

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