決意

「おはようございます」


 外に出ると満面の笑みで小林先生は出迎えてくれた。


「礼雄君久しぶり―」


「小林せんせー、おはようございます!」


 礼雄は今まで会えなかった思いを込めているのか、そのまま前屈をしてしまうのではないかと思うほど深々と頭をさげた。


「無事に風邪も治りましたので、本日からまたよろしくお願いします」


「心配してたんですよ。月曜からですから四日もお休みしてたんですもの」


 小林先生はそういった後、遠慮がちに聞いてきた。


「それに、礼雄君が休み始めた日のお母さん、なにか不審者を気になさっているご様子でしたので、ちょっと気になっていたんですよ」


 そういわれて、弥生は小林先生に不審者のことを尋ねていたのを思い出した。


「あー、あれは、本当、興味本位というか、どうなったのかなって思っただけですよ」


「そうなんですか? では、なにか変わったことがあったとかではないんですね?」


「ええ、小林先生に心配していただくようなことはなんにも」


 そういって弥生はにっこりと微笑んだ。


「えも、イチローが死んいゃったんあよね」


 不意に礼雄が話に割って入る。いつもなら、そそくさとバスに乗り込んでいるのだが、今日に限っては久しぶりに会った小林先生の元を離れずにいたようだ。


「え、誰かお亡くなりになったんですか」


 小林先生の丸い顔がサッと青ざめる。


「いえいえ、ペットの柴犬の話ですよ」


「あ、なんだそういうことだったんですね。……あ、ごめんなさい。ペットだって家族みたいなものですよね」


 小林先生はほっとした表情を見せたものの、自分が失礼な発言をしたと思ったのだろう。慌てて謝罪の言葉を口にした。


「いえ構いませんよ。……それよりも大丈夫ですか? 久しぶりにお会いしたんで、ゆっくり話してしまいましたが」


 弥生はそういって、腕時計が巻いてあるわけではないが、自分の左手首を指さし時間の心配をした。


「あ、いっけなーい」


 小林先生はそういうと、慌てて礼雄をつれてバスに乗り込む。


「では、責任もってお預かりさせていただきます」


「はい。よろしくお願いします」


 一週間ぶりの恒例のやりとりをして、弥生はバスの後ろ姿が小さくなるまで見送った。

 弥生は「んー」と唸り声をあげながら背中を伸ばす。なんだかこうして日常を送っていると、脅迫の事実などなかったような気さえしてくる。


「あらー、渋谷さん。おはようございます」


 声がかかった方向を確認すると、そこにはアンテナさんの元気そうな姿があった。


「安西さん、おはようございます。お風邪はもう大丈夫なんですか?」


「ええ。今朝に熱を計ったら、もうすっかりよくなっていたわ。結局、病院には行かずに自宅療養で治しちゃったわよ」


「うちも、微熱だったんですけど礼雄が風邪ひいちゃってたんですよ」


「あら、そうだったの? 子供は風邪をひきやすいから大変よね。それに、寝ていてっていっても、勝手に起きてあっちこっち行っちゃうんですものね」


「そうですね」


「それに、ここのところ快晴が続いたから、お外で遊びたがっていたんじゃない? 私もせっかくいいお天気なのに、お稽古事もせずに布団に寝転がっていたから、なんだか体にカビが生えているような気分だわ」


「風邪の時って、することがなくて暇になっちゃいますよね」


「そうよね。一昨日みたいにお話し相手がいてくれればいいんだけどね。……そういえば、昨日も渋谷さんのお宅に笹野さんがいらしていたの?」


「昨日ですか? いいえ。来てませんよ」


 昨日は弥生が笹野宅にまで出向いたし、帰りも送るという笹野を断っていたので、渋谷家には来ていないはずだ。


「あら、そう。昨日のお昼過ぎにお宅のイチローちゃんが吠えていたから、またいらしたのかと思ってたわ。私も様子をみに行こうかなと思っていたんだけど、イチローちゃんも数回吠えただけですぐに鳴き止んだから特に気にしなかったのよね」


 イチローの鳴き声。


 おそらく、そのときにケンジがやってきてイチローを殺したのだろう。

 そうならば、アンテナさんが庭を確認しに行かなくて本当によかった。ケンジが、イチローを殺しているところを目撃されて、なにもしないわけがないからだ。


「じつは昨日、イチローが死んじゃったんですよ。もしかしたら、そのときの鳴き声かもしれないです」


「え、嘘でしょ? だって一昨日まで元気だったじゃない。……どうして死んじゃったの?」


 アンテナさんの顔には悲しみの表情を浮かべていたものの、その目の奥は好奇心によってギラついていた。そんな人に本当のことを話すわけにはいかないので、礼雄についたものと同じ嘘をつくことにした。


「病気にかかっちゃったみたいで、手当てする間もなく死んでしまったんです」


「あら、それは可哀想ねー。でも、動物は病気になってもわかりにくいからしょうがないわよね。動物って喋らないからこそ可愛らしいともいえるけど、こういうときばかりは喋ってほしいわよねー。それにしても、礼雄君はショック受けたんじゃない?」


「ええ、まあ」


 弥生は、昨日の礼雄の素っ気ない反応を思い出してしまい、少し胸が痛んだ。


「そりゃそうよね。私ですら悲しいのに礼雄君はイチローちゃん可愛がっていたし、もっと悲しでしょうね。そういえば、私も子供の頃に犬を飼っていたんだけど――」


「あ、ごめんなさい。私、今日ちょっと用事があるのでこの辺で失礼しますね」


 弥生は、今日ですべてを終わらせるために早く笹野の家に向かいたかったので、アンテナさんの話を強引に遮った。


「あら、そうなの」


 アンテナさんは残念そうな顔をするものの、すぐに慌てた表情に変わった。


「あ、いけない。そういえば、私も今日の婦人会のお茶菓子がきれているから買い出ししてこなきゃいけないんだったわ。それじゃ渋谷さん、またね」


 弥生が挨拶を返す間もなく、アンテナさんはその場を後にした。


 本当に嵐のような人だ。


 だが、弥生はその嵐を心地よく感じていた。アンテナさんのマシンガントークを浴びせられることは、渋谷弥生にとっての日常であったからだ。今回の一件でいつも通りで平凡な日常が一番大事だということがわかった。

 だからこそ、これからその日常を取り戻すのだ。

 弥生はそう心に決めていた。

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