決戦前
ケンジの家までは一時間ほどかかるという話であったが、最寄り駅までは四十分でたどり着いた。笹野によると、ここから二十分以上歩かなければいけないらしい。
夏の太陽の下、それも日が一番高い時間帯に、熱を吸収したアスファルトを歩くのは拷問のように思える。だが、今日ですべてを終わらせるんだという強い思いが、弥生の歩を進ませていた。
道中、一緒に歩いているというのに笹野は一言も口を開くことはなかった。もしかしたら、笹野ですら最終決戦を前にして緊張していたのかもしれない。
「ここがすべての元凶、ケンジが住むアパートです」
不意に足を止めた笹野は、そういって目の前の建物を憎らしげに見上げた。
そこは見ただけで歴史を感じられるほどの木造のアパートで、側面には掠れたペンキでひらなかコーポと書かれていた。アパートというよりは小屋といったほうが的確な外見で、見たところ部屋は一階と二階にそれぞれ二部屋ずつの計四部屋しかないようだった。こじんまりと道の端に建っているのを見ると、隅に追いやられたいじめられっ子のような印象を受けた。
「ここにケンジが……」
弥生は、以前にケンジが住んでいたマンションとは比べものにならないくらい薄汚いこのアパートを見て、ケンジのこの十年間がどのようなものだったかがわかったような気がした。
おそらく、葛貫が死んでからもまともな職にも就こうとしなかったのだろう。いや、あんな見た目だから、もしかしたら就こうとしても就けなかっただけなのかもしれない。どちらにしても、たいした仕事をすることもなく、その場しのぎの生活を続けてきたのだろう。そんな生活を続けていれば、もちろん金は足りなくなる。金を借りようにも、職に就いてないケンジがまともな金融機関で借りれるわけもなく、闇金に手を出してしまう。借りたのはいいが返すあてもなく、執拗な催促から逃れるために脅迫状を出した。
笹野の推理を含めて考えるとこんなところだろうか。
しかし、そうケンジの半生を推測すると無性に腹が立った。そんな状況に陥ったのは、もともとケンジが怠惰な生活を送っていたためであり、いわば自業自得なわけだ。それなのに、十年前の約束を破って脅迫状を送ってくるなんて、自分勝手としかいいようがない。
だが、弥生がそれ以上に腹が立っていたのは、家族のためとはいえ、ケンジの自分勝手な振る舞いに屈しようとしている自分自身にだった。
ふと目を落とすと、ハンドバッグの隙間から青酸カリが入った小瓶がチラリと見える。
――そんな自分勝手な奴は殺してしまおう。
不意に弥生の脳内に声が響きわたる。
――だめだ。殺すなんて野蛮なことすべきじゃない。
殺そうと提案する声に対し、今度はそれを咎める声が響く。
――野蛮って、十年前だってひとり殺しているじゃないか。今更きれいごとをいうなって。だから、殺そうよ。
――いや、そんなことすべきじゃない。十年前は守るものがなかったから、葛貫を殺すことにそこまで躊躇はしなかったけど、今は大切な家族があるんだ。そんなリスクが高いことすべきじゃない。
――バカ。逆でしょ。いま殺さないと、その大切な家族が殺されてしまう可能性があるんじゃん。さ、殺そう。殺そう。
――殺さなくても大丈夫。ケンジの目的はお金。お金さえ手に入れば、礼雄に手を出したりするわけないよ。
――でも、ケンジは一度裏切っているんだよ。そんなの信じられない。また裏切るに決まってる。だから、殺そ。殺そ。
弥生の頭の中で、天使と悪魔のふたつの人格がケンジを殺すかどうかを議論している。ただ、どちらの意見も正しいように思えて結論を出すことはできなかった。そもそも、弥生にはどちらが天使の意見で、どちらが悪魔の意見なのかすらわからなかった。
「さて、準備はよろしいですかな?」
天使と悪魔の議論を遮るように、優しい口調で笹野が尋ねてくる。
「はい」
「ケンジの部屋はこのアパートの202号室です」
「202……」
弥生は、たしか十年前にケンジと葛貫のふたりが住んでいたマンションの部屋番号も202だったなと、どうでもいいことを思い出していた。
「なにか気になることでもありますか?」
「え、そうですね……、もしケンジが不在だったらどうしましょう?」
「ご心配なく。私が調べたところ、ケンジはこの時間はだいたい部屋にいるはずです」
「そうですか……」
「ところで、例の小瓶をケンジに使うかどうかは決まりましたかな?」
「……いいえ、まだ決めかねています」
いき当たりばったりのようにもみえるが、頭の中でどれだけ考えても結論が出なかったので、実際にケンジに会ってから改めて考えることにしようと思っていた。
「そうですか。まあ、ケンジがどういった態度をとるかにもよりますからな。その場で決めるというのもありでしょう」
笹野は納得したように頷く。
「それから、最後にいくつかアドバイスをさせていただきます」
「アドバイスですか?」
「ええ。まず、殺すにしろ、殺さないにしろ、ケンジと話すのは必ず彼の家の中だけにすること。これは、ケンジと会っていることを他の人に見られないため、そして、いざというときに速やかにケンジを殺せるようにするためです」
「なるほど」
「もうひとつは、渋谷さんのほうから極力しゃべらないようにしたほうがいいということです」
「しゃべらないって……声を出すなってことですか?」
「まあ、まったく声を出すなとまではいいませんが、ケンジと会話するのは最小限でおこなってほしいということです。というのも、金の受け渡しの際に、脅迫者がその場の音を録音しておくということがよくあるからです」
「録音ってなんのためにですか?」
「その録音テープを使って、さらに相手を脅迫するためですよ。しかも、今回の場合は十年前の事件に渋谷さんが関わっていたという明確な証拠があるわけではありません。そうなると、渋谷さんが脅迫の指示通りお金を持ってきたことが一番の証拠になってしまうわけです」
ぎらぎらと太陽が照りつけている最中だというのに、弥生の体には鳥肌が広がっていた。ケンジなら、それくらいのことを平気でおこないそうだと思ったからだ。
「とはいっても、今回はこちらからケンジを急に訪ねているので、録音される可能性は低いとは思いますが、念のためにということで」
「わかりました。笹野さんのアドバイス通り、なるべく話さないようにします」
「では、参りましょう。なにかありましたら、すぐに大声をだしてくださいね」
「はい!」
こうして、弥生は最後の決戦へと向かった。
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