決戦


 階段を上って奥にあるほうの扉の前に立つと、郵便受けに書かれている住所を確認した。全部で四部屋しかないので間違いようがないのだが、確認せずにはいられないほどの緊張が弥生を襲っていたのだ。

 ひらなかコーポ202号室、久瀬くぜ。郵便受けには乱雑な字でそう書かれていた。


 久瀬。これはケンジの苗字であろうか。そういえば、ケンジの苗字は教えてもらってなかったように思う。

 いや、苗字だけではない。いま思い返してみるとケンジのことなどなにも知らなかった。彼の生年月日も、血液型も、もしかしたら彼の性格すらもきちんと理解していなかったかもしれない。なにせ、過ごした時間は十年前の半日程度しかないのだ。それも当然といえた。


 一緒に人殺しまでした仲なのに、ケンジのことをなにも知らなかったんだなと考えると、どこか寂しさを感じた。

 とはいっても、今は感傷に浸っている場合ではない。そう思いインターホンを押そうと手を伸ばす。だが、その手は驚くほどに震えていた。

 いったん出した手を引っ込めると、ひとつ深呼吸をする。

 ぬるい空気を肺いっぱいに溜め、不安とともにそれを吐き出す。たったそれだけの所為であったが、弥生の気持ちは幾分か落ち着きを取り戻すことができていた。


 ふと階段下に目をやると、待機している笹野がニッコリと笑い頷いてくれた。その微笑みに後押しされた弥生は、改めてインターホンに手を伸ばす。

 嘘のように震えは止まっており、今度はすんなりと押すことができた。


 ピーンポーン。


 アパートの見た目よりもずっと軽やかな音が流れる。だが、十数秒待っても返事がない。留守だったらいいなと頭の片隅で思っていたりもしたが、実際にそうなってしまうとここまで来た意味がなくなってしまう。

 笹野に確認しようと再び階段下に目を向けようとしたところで、ようやく部屋の中から「どちらさん?」と気怠そうな声が返ってきた。

 少し掠れていたが、その声は十年前に聞いたケンジの声と同じものであった。弥生は先ほど身を潜めた緊張がぶり返すのと同時に、変わらぬケンジの声になぜか懐かしさを感じていた。


「私よ……」


 弥生は、笹野のアドバイス通り小声でそういった。すると、目の前の扉は軋んだ音を鳴らしながらすぐに開かれた。


「うわ、マジか! 弥生ちゃんのほうから来てくれるなんて思わなかったよ」


 開かれた扉から体半分覗かせて出てきたのは、つるつるのスキンヘッドで堀の深い顔、右目尻に涙ぼくろがある人物、間違いなくケンジその人であった。


「久しぶりー。あ、そういえば、二週間ほど前に少しだけ会ったっけ。まあ、あれは会ったうちには入らないか」


 寝起きなのだろうか、目やにがついたままケンジは少年ように笑った。


 信じられなかった。あんな脅迫状を出しておいて、勝手に家に侵入したりしておいて、最終的には飼っているペットすら手にかけておいて、そんな笑顔をみせることができるなんて、ケンジは頭がおかしいのではないだろうか。

 弥生はそう思ったが、そんなことは顔に出さずケンジの顔を静かに見つめていた。


「いやー、それにしても弥生ちゃん、美人になったなー」


 こちらの気も知らず、ケンジはまるで正月にだけ会う親戚のように、なれなれしく振る舞ってきた。


「どうも」


「えー、素っ気ないなぁ。……まあ、無理もないか。ていうか、こんなところで話すのもなんだから、ファミレスにでもいって話そうぜ」


「いえ、ここでいいわ」


 笹野の助言に従うために、弥生はケンジの申し出を断ると部屋の中を指さした。


「ここって、うちの中? まあ、俺は構わないけど、散らかってるぜ?」


「大丈夫」


「弥生ちゃんがいいっていうんならいいけど……」


 ケンジは渋々といった様子ではあったが、扉を全開にして弥生を迎え入れてくれた。

 とりあえず、ここまでは予定通り。あとはケンジの部屋で話し合って、バッグに入っている例の小瓶を使うかを決めるだけだった。


 部屋にあがるまえに、ケンジの目を気にしつつ、笹野のほうを確認する。だが、ケンジを警戒してか、笹野の姿を見つけることはできなかった。

 仕方なく、弥生は緊張を保ったままケンジの部屋の中にあがった。


 ケンジのいうとおり、そこは散らかっていた。ゴミ捨てもろくにしていないのであろう、玄関を入ると、パンパンにゴミが詰まった70リットルのポリ袋がふたつほど床に置かれている。

 だが、部屋の汚さよりも弥生が驚かされたのは、その暑さだった。日差しが遮られているため太陽光からの焼けるような暑さはないのだが、風通しが悪いのかジメジメと蒸しており、サウナさながらの暑さといえた。

 それでもここで退くわけにはいかない弥生は、ポリ袋を跨ぐように避けて中へと進む。奥には六畳ほどの和室があり、ちゃぶ台としわくちゃの布団が敷かれていた。ちゃぶ台の上にはコンビニ弁当の空のパックと缶チューハイが転がっており、それだけでケンジの腐った生活がかいまみえた気がした。


「ま、そこにでも座って」


 ケンジはちゃぶ台の上にあるものをまとめてゴミ袋に流し込むと、畳の空いているスペースを顎で指した。

 弥生は指示された場所に正座すると、畳はじっとりと湿っており、とても不快な気分を味わわされた。


「ごめんな。この部屋、すげー暑いだろ? でも、我慢してくれよ。エアコンつけたら電気代バカになんないんだよ」


 弥生の考えを察したのか、ケンジが申し訳なさそうに謝る。


「大丈夫よ」


 そう冷めた口調でいいながらも、弥生の体からは汗が絶えず流れでていた。


「そうだ、なんか飲む? とはいってもお茶しかないけど」


「ありがと。水でいいわ」


「水って、水道水しかないけどいいの?」


「ええ」


「そ。じゃあ、ちょっと待ってて。すぐに持ってくるからさ」


 ケンジはどこか呆れた顔をしながらも、戸棚からグラスをふたつ手に取ると、ひとつにはお茶を、もうひとつには水道水を入れて持ってきた。


「なんかお客に水道水出して、自分だけお茶飲むのは気が引けるが、弥生ちゃんの要望だから文句はなしだぜ」


「ええ。ありがとう」


 弥生はそう礼をいうと、ケンジから水道水が入っているほうのグラスを受け取り、口に流し込んだ。

 蛇口までの水道管が太陽光などで熱せられていたためであろう。その水は思っていた以上にぬるい。だが、弥生はそんなことを気にすることもなく、口に含んだ水道水を胃まで落とした。それほどまでに体が水分を欲していたためだ。


「しかし、本当に驚いたぜ。どうやってここの住所わかったの?」


「えっと、まあ、いろいろと調べて」


 調べてくれたのは笹野であったが、さすがに笹野の名前を出すわけにもいかず、弥生はケンジの当然の疑問に曖昧にしか答えることができなかった。


「いろいろ?」


「そう。いろいろ」


「ふーん、まあいいか。俺も弥生ちゃんのことを勝手に調べちゃったしな。ここはお互い様ってことで」


 弥生のはぐらかすような答えにも納得してくれたようで、ケンジはようやく腰をおろした。


 だが、お互い様ということはないであろう。少なくともこちらは脅迫状なんか出していないし、ペットを殺したりもしていない。それなのに、ケンジと同類扱いされるのは無性に腹が立った。それでも、とりあえずは話を聞かなくてはと、弥生は自分の感情を表に出すのを膝に置かれた手を強く握りしめるだけにとどめておいた。


「というわけで本題に移ろうか」


 ケンジはにやりと不敵に笑う。


「弥生ちゃんがいろいろ調べてまでここに来てくれたってことは、提示した金額を持ってきてくれたってことでいいんだよね?」


 弥生は無言で頷き、ハンドバッグから百万の入った茶封筒をちゃぶ台の上に置いた。

 ケンジはすぐにそれを手にすると、中身を確認しだした。


「百万あるから」


「マジで? いや、助かるわー。俺、変なところに金を借りちゃってさ、今月中に八十万は返すっていっちゃってたから、これで返せなかったらヤバい仕事を手伝わなきゃいけないところだったんだよ。いやー、助かった。返せるときがきたら必ず返すから」


「返さなくていいから、二度と私の目の前に現れないで」


「……そうだよな。弥生ちゃんには悪いことをしたと思ってるんだよ。なにせ、脅迫みたいなかたちで弥生ちゃんを裏切っちゃったからさ。でも、絶対に今回だけだから心配しないでくれよ。それに、俺の方も結構気を遣っていたんだぜ。家なんかで直接会ったら弥生ちゃんに迷惑かかるかもって思ってさ、だからあんなまどろっこしい手紙にしたんだよ」


 みたいな? あれを脅迫といわずなんというのか。それに本当に気を遣っているのならば、そもそも裏切ったりしないはずである。

 弥生はケンジの自分勝手なものの考え方に怒りを覚えた。


「だけど、弥生ちゃんに頼むのはもう無理だと思ってたよ。だって、俺の顔を見ただけで逃げるように家の中に入っちゃうし、ジェイソンにも来てくれなかったしさ」


 ケンジは本当に嬉しそうに話し続ける。


「それにしても、結婚して子供までいるとはなー。同じ人間を殺した仲なのにずいぶん差がつけられちゃったよなぁ。息子は名前はなんだっけ? 礼雄君だったけ? あのくらいの歳のときが――」


「家族の話はしないで」


 あれだけのことをしておきながら、さらりと家族の話をしだしたケンジに対し、本来なら大声で怒鳴りつけたかった。だが、笹野のいいつけのこともあったので、弥生は感情を押し殺した声で静かにケンジの話を遮る。ただ、それではこちらの気も治まらないので、憎しみを込めた瞳で、ケンジの窪んだ目を睨みつけていた。


「おいおい、そんなに怒るなよ。まるで、俺が弥生ちゃんの家族に手を出そうとしているみたいじゃん。百万もの大金を持ってきてくれた恩人にそんなことするわけないっての」


 言葉の裏を返せば、お金を持ってきたからこそ手出しはしないが、そうでなかったら手を出していたということだろうか。なんて卑劣な男なのだろう。

 だが、弥生はそんな考えを口に出すことはしなかった。ヘラヘラと笑うケンジをひたすら睨み、爆発しそうな自分の感情を誤魔化していた。


「あー、もう悪かったって。家族の話はしないよ。だからそんな目で見ないでくれよ」


 そういって、ケンジは右手の小指をこちらに突き出した。「ほら」

 それがなにを意味しているのかすぐにわかった。だが、弥生は自分の右の小指を出すことなどできなかった。


「あれ、忘れちゃった? クズ公殺したときもやったじゃん。指切りげんまん。弥生ちゃんがこのアパートを出た瞬間、俺たちは赤の他人。もう二度と会ったりはしないっていう約束の指切り」


 忘れていたわけではない。ただ、ケンジの傲慢さに呆れていた。ケンジこそ指切りまでしておいて、裏切って脅迫してきたことを忘れているのではないだろうか。

 弥生の苛つきが頂点に達しようかというとき、頭の中で再び声が聞こえはじめた。


 ――指切りしたって、どうせまた同じように裏切るに決まっているんだ。こんな奴は殺してしまおう。


 ――でも……。


 ――なにを躊躇っているんだ。次に狙われるとしたら礼雄なんだぞ。礼雄が殺されてからじゃ遅いんだ。だから、殺そう。


 ――そうだよね……。もう、しょうがないね。これは殺すしかないんだよね?


 ――そうだよ。こんな奴、生きている価値もないんだ。さあ、殺そう。殺そう。


 ――わかったよ。こいつを殺そう。


 ――ああ、殺そ。殺そ。


 ――殺そ。殺そ。殺そ。


 ――殺そ。殺そ。殺そ。殺そ。


 またしても討論が始まるのかと思いきや、すぐに結論がついてしまう。頭の中では「殺そ」という単語が、傷口から流れでる血液のように絶えず溢れていた。


 殺すしかない。


 弥生はそう決心すると、ハンドバッグの中の小瓶をそっと握った。


「ねえ。やっぱり私もお茶をもらってもいいかな?」


「え?」


 弥生の突然の申し出に、ケンジは戸惑った声を返すと、突き出していた右の小指を持て余したかのようにピクピクと左右に動かしていた。


「やっぱり水道水だとカルキ臭くておいしくないから」


「おいおい。だから後で文句をいうなよっていったじゃんかよ。……ま、だけど、弥生ちゃんは大切なお客様だからな。すぐに交換しますよ、お嬢様」


 ケンジは仰々しくお辞儀をすると、すぐに立ち上がり弥生のグラスを持ってキッチンへと向かった。


 ケンジが背を向けていることを確認すると、弥生は小瓶を取り出して中身の青酸カリをケンジのグラスの中にそっと入れる。

 緊張でドクドクと心臓がうるさいほど鳴り響き、体を震わせている。それでも、小瓶の中の粉は少量だったので、こぼしてしまうことなく無事にグラスの中に入れることができた。

 毒というイメージから、紫色などに変色するのではないかなどと思っていたが、青酸カリが混じったお茶の見た目は入れる前となんら変わることはなかった。本当にこんなもので殺すことができるのかと不安を覚える。だが、これが信頼できる笹野が用意してくれたものだ。効果がないのではという不安など杞憂に終わるのであろう。

 そんなことを考えている中、毒を盛られたことなど知らないケンジは、ご機嫌そうに鼻歌交じりに弥生のお茶を持って戻ってきた。


「はいよ。お茶」


「ありがとう」


「もしお茶がカルキ臭くても我慢して飲んでくれよ。他の飲み物なんかないからさ」


 ケンジは皮肉めいた口調でそういうと、自分のジョークに満足したかのように喉の奥でクククッと笑った。


「ええ。ケンジもね」


「ははは。俺は多少腐ってても平気で飲み食いしちゃうタイプだぜ。カルキ臭いのくらいなんの問題もないよ」


「……ケンジはあのときと変わっていないのね」


 明朗に笑う姿は、葛貫を殺したあのときのケンジとダブって見えた。


「いやいや、よく見てよ。めちゃくちゃいい男になったでしょうよ」


 いや、変わっていない。どんなときだってヘラヘラと笑って、自分の都合のいいようにしかものを考えられない。そして、どんなに他人を傷つけてもなにも感じない。あの頃から、まるで成長していないようにみえた。


「しっかし弥生ちゃんは大人の女性に成長したよな。十年前とは別人みたいだよ」


 当たり前だ。十年もの月日が流れ、結婚し子供までいるのだ。あの頃とは違う。幸せな家庭があるのだ。それを守るためならなんだってできる。そう、なんだってだ。


「ねえ、ケンジ。乾杯しない?」


「乾杯?」


「そう、乾杯。十年振りの再会のお祝いと、今生の別れを約束しての乾杯。指切りよりも大人っぽいでしょ?」


「お、弥生ちゃんもノッてきたねー。でも、そういういのって酒じゃないと格好つかないんじゃない? 酒、買ってこようか?」


「いいのよ。私達のような人間は緑茶で乾杯するくらいが分相応でしょ」


 そう、ケンジみたいな最低な人間は毒入りの安いお茶がお似合いだ。


「ははは、それもそうかもな」


 ケンジは毒入りのグラスを掲げるようにこちらに突き出す。


「それじゃ、十年ぶりの再会と」


「今生の別れに」


 弥生も、ケンジにならうように自分のグラスを顔の高さまであげる。


「乾杯」


「乾杯」


 チンと安っぽい音をたてて、ふたつのグラスが軽くふれ合う。弥生は満足げに微笑むと、グビグビと中身を飲み始めた。

 冷蔵庫に入っていなかったのであろう。喉を流れるお茶は、先ほどの水道水と同じくらいにぬるかった。それでも弥生はグラスから口を離すことはなく、すべてを飲み干した。ケンジにも十分に飲んでもらうためというのもあったが、なによりも自分自身の迷いも一緒に飲み込んでしまうためといえた。


「おお、いい飲みっぷり。じゃあ俺も」


 ケンジはそういうと、予想通りこちらの真似をしてグラスを一気に呷った。

 弥生はその様子をただ見守っていた。


「うぇ、にがっ。もしかしたら本当に腐って……」


 最後までいい終えることもなく、ケンジは急に苦悶の表情を浮かべると、ドサリと後ろに崩れ落ちた。

 弥生は、驚きのあまり「ひっ」と声にならない悲鳴をあげてしまう。速効性があるものだとは聞いていたが、ここまで早いとは思っていなかったのだ。それでも、ケンジの死を、人の死を見届けたく、すぐに立ち上がって見下ろすように様子を確認した。


 そこには先ほどまで笑っていたケンジはいなかった。目は恐ろしいものを見たかのように大きく開かれ、天井を見つめている。同じく開かれた口からは呼吸音はなく、すでに事切れていることを告げていた。


 そう。最低な脅迫者であるケンジは、あっけなく死んだのだ。

 ケンジの死を確認した瞬間、弥生は自分の胃が燃えるように熱くなっていくのを感じた。この感覚は葛貫を殺したときと同じ、そして礼雄の頬を叩いたときと同じものだった。

 すでにケンジは死んでいるはずなのに、殺したい、顔を踏みつけてグシャグシャにしたいと思ってしまっていた。


 弥生は「ふっふっ」と獣の如く浅く呼吸を繰り返しながらも、なんとか理性を保とうとする。

 ここでケンジを踏みつけては毒殺した意味がなくなってしまうではないか。なにかしらの証拠を残してしまう可能性だってある。それに外には笹野もいるのだ。あまり大きな音をたてたら気づかれてしまうだろう。ここは落ち着いてこの場を後にするんだ。それですべて終わるのだから。

 そう頭の中で考えながらも、弥生の右足はすでにケンジの顔面にめり込まれていた。足の裏にはケンジの体温が伝わり、それだけでわずかに残っていた理性など吹き飛んでしまうようだった。


 ――殺そ。殺そ。殺そ。


「殺そ。殺そ。殺そ。殺そ」


 頭の中で響く声に合わせて、同じように「殺そ」と呟き続ける。そして言葉を発するたびに、リズムを刻むように右足を踏み落とした。

 ぐしゃりぐしゃりと踏み続けていくうちに、ケンジの顔は歪んでいき、それに比例するように弥生の右足には血肉にまみれていく。自分の足が汚くなろうが、弥生は踏みつけることを止めることができなかった。むしろ、ストッキング越しにヌルヌルと絡みつく血液が心地よいと思うほどだった。


「殺そ。殺そ。殺そ」


 裏切られた憎しみや恨みといった感情はすでに弥生にはなかった。あるのは殺意。なんの理由もない、真っ白で純粋な殺意であった。ただ殺していたい。踏み続けていたい。それだけを思っていた。


「殺そ。殺そ。殺そ。……ふう」


 何度踏みつけ、何度「殺そ」と呟いたかすら覚えていない。ただ、弥生が満足した時にはケンジの下顎は外れ、高めだった鼻もひしゃげたように潰れており、顔全体が原型をとどめていなかった。

 ちらりと壁にかかっていた時計に目をやると、ケンジの部屋に入ってからすでに三十分以上経過していることがわかった。

 早く戻らなければ笹野が様子を見に来てしまうかもしれない。


 そう思った弥生はすぐに足首あたりまで血塗れになってしまったストッキングを脱ぐと、ハンドバッグにしまい込む。そして、念のために自分が使ったグラスを洗って戸棚へと戻した。

 最後に和室に倒れているケンジの顔をもう一度だけ見てみる。目玉すら見あたらない潰れたその顔は、ホラー映画にでも出てきそうなゾンビにもみえた。


 もしケンジがゾンビみたいに不死身だったら何度でも殺せるのに、と思ってしまう。

 弥生はこんな状況だというのに、思わず苦笑してしまった。自分の考えがあまりにも馬鹿げている思ってしまったからだ。

 この男は幸せな生活を脅かす最低な奴なのだ。冗談でも生き返るなんて考えるべきではない。

 弥生は自分にそう言い聞かせると、ようやくケンジのアパートを出た。

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