決別の指切り
外は相変わらず茹だるような暑さであったが、弥生の気持ちは春の気候のように穏やかでスッキリとしていた。普段はうるさいだけのセミの音も、今はどこか軽快な音楽にすら聞こえてくる。
なにせ、脅迫者であるケンジが死にすべてが終わったのだ。鼻歌でも口ずさみたい気分であった。
後悔があるとするなら、ケンジの死をきちんと見ていたかったということくらいだろうか。あまりにもあっという間に死んでしまったので、死の瞬間をしっかりと確認できなかったのが唯一の心残りであった。
弥生がコンコンコンと軽やかな足音をたてながらアパートの階段をおりると、笹野が心配そうな顔で出迎えてくれた。
「思っていた以上に時間がかかっていたようなので心配しましたよ。それで、いかがでしたか?」
弥生はその質問には答えず、ただ空になった小瓶と百万円の入った封筒を笹野に差し出した。その行為だけで笹野もすべてを察したようで、それらを受け取ると満足そうに頷く。そして、弥生を促すようにして歩き始めた。
普段なら、再びあの暑さの中を二十分近く歩くのは苦痛としか感じないが、今の弥生には、ギラギラと輝く太陽すら自分の人生を明るく照らしてくれている舞台照明ように思えた。
「渋谷さんはなにも気に病むことはありません。ケンジは生きている価値のない人間なのですから。これは殺人ではなく、害虫駆除くらいに考えたほうがいいですよ」
道中、弥生が落ち込んでいると勘違いしているようで、笹野は励ましの言葉を並べた。
「ええ、後悔なんてしてません。全部ケンジが悪いんですから」
弥生は今までの感謝を表すように、笹野に向かって深く頭をさげる。
「笹野さん、今まで本当にありがとうございました」
「いえ、私はなにもお礼をいわれることなどしておりません。渋谷さんが幸せのために頑張った。ただそれだけのことです」
幸せのために頑張った。その通りだと思った。自分はこの数日間、幸せを取り戻すことだけを考えてきた。
そして今、ケンジから幸せを取り戻すことができたのだ。だが、その幸せを守るために、弥生にはもうひとつやらなければならないことがあった。
「あの、笹野さん」
「ん? なんですかな?」
笹野はいつも通りの優しい笑みを浮かべていた。
その顔を見た弥生は、これから自分が言おうとしていることを本当に笹野へと伝えていいものかと迷ってしまう。なにせ、恩人でもある笹野に、とんでもなく無礼な発言をしようとしているのだ。弥生は、しばらくの間、口を開けたままなにも話せずにいた。
それでも、せっかく取り戻した幸せを壊すわけにはいかないのだと自分に言い聞かせ、笹野へ自分の考えをぶつけた。
「笹野さん、これでケンジの驚異はなくなりました。すべて笹野さんのおかげです」
照れたように笑う笹野へ、弥生はさらに言葉を続ける。「今までお世話になった方にこんなこというのは失礼だとは思っていますが、今後はなにがあっても私とは会わないようにしていただけませんか?」
「どういうことですかな?」
笹野は不思議そうな顔でこちらを見返す。
「今回の一件のことを思い出したくないっていうのが理由のひとつなんですが……」
弥生はひとつ息を吐いて自分を落ち着かせた。
「一番の理由は、じつは夫が、私と笹野さんのことを疑っておりまして……」
「ケンジのことを感づかれているということですか?」
「いえ、そうではなくて、その、深い関係なのではないかと疑っているんです」
「深い関係というと……、男女の関係だと疑われているということですか?」
笹野は目を丸くして驚いていた。
「ええ、そうなんです。昨日、夫が家を出て行ってしまったことはお伝えしたかと思いますが、じつはそのこともそれが原因でして」
「はははは、親子ほど歳が離れているというのに、渋谷さんの旦那さんは嫉妬深い方なのですな」
笹野はおかしそうに笑う。
「わかりました。明日からは渋谷さんと私はまったくの赤の他人ということですな。問題ないですよ、今日ですべてを終わらせることができそうですしな」
笹野がすんなりと提案に同意したことに、弥生は少し驚いていた。予想では、こちらに好意を持っている笹野が、なにかしらの理由をつけてこの申し出を拒否してくるのではないかと思っていたのだ。
――笹野って爺さんは間違いなくお前に惚れ込んでいるんだろうよ。
もしかしたら、この考え自体が間違っていたのだろうか。笑って了承する笹野を見る限り、そう思えてしまう。では、なぜ――
「渋谷さん」
「はい、なんでしょう?」
笹野が不意に話しかけてきたので、弥生は考え事をやめざるを得なかった。
「指切りしませんか?」
「え?」
「明日になったら、私と渋谷さんは赤の他人という約束の指切りです。十年前、ケンジともやったんですよね? 大丈夫、私は裏切ったりしませんよ」
笹野はそういって右手の小指を突き出してくる。
弥生は少し躊躇った後、笑顔でその小指に自分の小指を交じらせた。
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