エピローグ
悪夢の現実
すべてを終わらせた弥生は、自宅前まで戻ると、最後に礼雄に会いたいという笹野と一緒に息子の帰りを待っていた。
「今日中にすべてを終わらせることができてよかったですな」
「ええ」
笹野の言葉に弥生は曖昧に頷くと、空を見上げた。
一面に広がる青い空に、白い染みのようにひとかけらだけ雲が浮かんでいた。
弥生の心も同じだった。
ケンジを殺して幸せを取り戻し、気分も晴れやかなはずだった。それなのに、なぜか原因不明の小さな不安が消えないでいたのだ。
なにが気になるのか帰りの電車の中で今回の脅迫事件を思い返していたのだが、結局原因はわからず、そのモヤモヤが少しずつ広がっていた。
どこか遠くで犬の吠える声が聞こえてくる。
弥生は、イチローもよく吠えていたなと、今は亡きペットのことを思い出していた。
ぞわり。
不意にわき出てきた不安の感情と共に、今回の騒動で引っかかっていたいくつかの出来事や言葉が次々と脳裏に蘇る。
――鍵のかかった自宅。
――侵入ルート。
――私ったら一昨日の晩から夏風邪を引いちゃったみたいでね。
――玄関を指さす礼雄。
――俺、笹野さんのためならなんだってやりますから。
気になった点を繋ぎ合わせると、まるで星座のような朧気な形が見えてくる。ただ、見えてきたその形は、星座とは違い美しく輝いてなどはいなかった。
あくまでも妄想。ただ辻褄があってしまうだけ。彼がそんなことをする必要性がないのだから。
そう考えながらも、不安はすでに弥生の心の中を覆い尽くしていた。
「渋谷さんもこれで安心して暮らせますね」
「……ええ」
「私も少しは別れた妻や息子に罪滅ぼしができましたかな」
笹野はそういいながら、薄い頭を照れたように掻いた。
ぞわり。
その笹野の姿は、弥生の昔の記憶にある誰かに似ているような気がした。
――葛貫って珍しい苗字ですね。
――こいつママに勘当されちゃったんだぜ。
――葛貫を見ていると過去の自分を連想させられる。
――子供もひとりもうけたんですが、小さい頃に別れたっきりで、もう数十年は会っていないですね。
ひとつの憶測が頭に浮かぶ。その考えは、確率としては低いものであったが、弥生には十分に現実味のあるものに思えていた。
「おや、バスが来たようですな」
笹野の言葉通り、向こうからのろのろとやってきた幼稚園の送迎バスが渋谷家の前に停まる。扉が開かれると、すぐに礼雄が降りてきて嬉しそうな声でこういった。
「ママ! 笹野のおいーちゃん! ただいま!」
ぞわり。
体に寒気を感じながらも、背中には一筋の粘つく汗がどろりと流れていた。
――今日ですべてを終わらせましょう。
――我が子を殺した犯人にも、同じ思いを味わわせてやろうと考えませんでしたか?
すでに憶測は確信に近いものに変わっていた。
体内を巡る血液が沈殿してしまったような感覚だった。炎天下だというのに暑さは感じず、むしろ歯がガチガチと音をたてて震えている。
それでも、胃だけは例外で血が熱くたぎっているようだった。
だからこそ、笑みを浮かべた笹野がウエストポーチをまさぐりながら礼雄に近づくのを、弥生はただ黙って見ていることしかできなかった。
幸せの裏っかわ 笛希 真 @takesou
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