対応策


「おい、弥生? 大丈夫か? かなり顔色が悪いみたいだけど」


 雅雄が店屋物の蕎麦を啜りながら、心配そうに尋ねてきた。


「え? ああ、大丈夫よ。ちょっと頭痛がするだけだから。それにしても、ここのお店、初めて頼んだけどおいしいわね」


 弥生はすぐに笑顔をつくり、話題をそらした。

 結局、脅迫状がきてからというもののなにも手がつかないでいた。晩ご飯の支度する気力もなくなってしまったため、以前教えてもらった、おいしいと評判の蕎麦屋の出前を頼んだのだった。


「そうだな。さすがアンテナさんだな」


「そうね。今度、お礼をいっておくわ」


 アンテナさんというのはこの地区の町内会長の奥様のことで、渋谷家の隣に住んでいる。もちろん、アンテナさんというのは本名ではない。本名は安西あんざい初音はつねといい、見た目は上品で小柄な老婦人といった感じなのだが、とにかく噂話のたぐいが好きな人で、弥生も彼女から度々情報を仕入れたりしていた。

 そんな話を雅雄に話したところ「それじゃあ安西さんじゃなくて、アンテナさんだな」とおかしそうにいうので、渋谷家では彼女には内緒でアンテナさんというあだ名で呼ぶようになっていたのだ。


「そういえば、アンテナさん情報じゃないけど、最近不審者がでるんだってな?」


 雅雄はそういいながら、かき揚げを蕎麦つゆに十分に浸してうまそうにかじりつく。


「ええ。小林先生に、礼雄を遊ばせる時はなるべく目の届く範囲にしておいてくれっていわれたわ」


「ひとりえお外いったらあめーって、小林先生いってた」


 礼雄も、弥生のざる蕎麦を小分けにしてあげたものをチュルチュルと音をたてながら食している。


「それでその不審者がどうかしたの?」


「昨日の話になるんだけど、じつはさ、家に帰る途中に変な奴がいたんだよ。つるつるの坊主頭の男でさ、ただ突っ立ってタバコを吸っているだけなんだけど、なんだかこっち見てニヤニヤ笑っていたんだよ。多分、そいつが噂の不審者じゃないかなって思ってさ」


 血管に沿って頭がズキズキと痛む。


 坊主頭。

 不審者。

 若い男。

 ケンジ。

 脅迫状。

 それらのキーワードから連想される答えはひとつしか思いつかなかった。


 なんでこんなことに気づかなかったのか。最近噂になっている不審者というのはケンジのことだったのだ。おそらく、この家を探す為にしばらくさまよっていて、その姿が不審者の噂として広まったのであろう。それにしても雅雄にまで接触してくるなんて、いったいなにを考えているのだろうか。

 弥生は自分の口の中の水分が急速に失われていくのに気づいた。


「……で、なにかされたの?」


 乾き張り付いた喉を唾液を飲み込んで潤すと、ようやくかすれた声を出すことができた。


「なんかされたら警察にいってるか、殺されているだろ」


 雅雄は、弥生の心配をよそに笑えない冗談を返す。


「ただジーッとこっちを見てニヤニヤしているだけだったよ」


「そう、よかった」


 よくなどなかった。間違いなく、ケンジは雅雄が弥生の夫であることに気づいているのであろう。

 ケンジは雅雄に危害をくわえてくる気なのだろうか。そんなことは絶対にあってはならない。しかし、弥生には幸せなこの生活を守る方法が思いつかずにいた。

 自分の無力さが心底嫌になる。


「おいおい、そんなに心配するなよ。ただのチンピラみたいな奴だったぜ。なにかあったら俺がとっ捕まえてやるよ。俺だってこう見えてもけっこう――」


 雅雄は過去の自分の武勇伝を意気揚々と語り始めていた。中学生の時に学校の番長に因縁をつけられたが返り討ちにしてやったとか、柔道の授業では柔道部員さえ自分には勝てなかったなど、弥生には確認のしようがない学生時代の話ばかりだった。ただ、その話が嘘であろうが本当であろうが意味のないことといえた。

 なぜなら、ケンジは弥生と共に一人の人間をこの世から抹殺したという過去をもっているのだ。そんな危険な人物に、中学生の時の喧嘩自慢など到底通用しないであろう。


 いっそのことすべてを打ち明けてしまおうか。もう十年も昔のことなのだ。もしかしたら、夫もすんなりと受け入れてくれるかもしれない。そう考えもしたが、不意に耳に入った雅雄の言葉が、弥生の思考を遮った。


「――だから、俺がその不審者に襲われても返り討ちにしてやるさ。それにアンテナさん情報じゃ、たしかこの近所に元刑事の人が住んでるんだろう? なにかあったらその人のところにでも相談してみたらいいんじゃないか?」


 これだと思った。

 警察に直接相談するのは気が引けるが、現役を退いた人なら深く追求してくることもないだろうし、なにかいいアドバイスがもらえるかもしれない。


「その元刑事の人ってどこに住んでいるんだっけ?」


 弥生は慌てて雅雄に確認した。


「え? 俺は知らないよ。弥生がアンテナさんから聞いたんだろう?」


 その通りだった。だが、そのときはこんな事態に陥るとは思ってもなかったので、その場限りの噂話として聞き流してしまっていた。


「そうよね。明日にでもアンテナさんに聞いてこようかしら」


「大げさだな。そんなに心配するようなことじゃないだろ」


 ケンジからの脅迫状で、自分でも気づかないほどに気持ちが高ぶっていたのでいたのであろう。こちらの気苦労も知らないで、のんきなことばかりいう雅雄に、弥生は頭にきてしまっていた。


「あなたはなんでそんなに楽観的なこといっているの! 礼雄になにかあってからじゃ遅いのよ!」


 いきなりヒステリックな声を張りあげた弥生に対して、二人は目を丸くしてこちらを見返している。雅雄に至っては蕎麦を口につけたまま固まっていた。


「ご、ごえんなさい」


 礼雄が、自分が怒られたのだと勘違いしたようで、震えた声で謝ってくる。

 それを見て弥生はようやく我に返った。


 なにをやっているんだ。急に怒鳴ったりしたら変に思われてしまうではないか。そう考えた弥生は取り繕うように謝罪の言葉を口にした。


「ごめんなさい、急に大声だしちゃって。礼雄もごめんね。ママは礼雄に怒っていたわけじゃないのよ」


「パパ?」


 一瞬、なにを聞かれているのかわからなかった。だが、その雅雄と弥生を交互に窺うような視線から、雅雄に怒っていたのかと尋ねているのだと理解した。

 息子にこんなにも気を使わせてしまうなんて、駄目な母親だ。弥生は自分自身のことを恥ずかしく思った。


「違うわ。パパにも怒ってないわよ。あなた、ごめんなさい。私、ちょっと頭痛もひどくてイライラしていただけだから気にしないでね」


「あ、ああ。……いや、こっちも悪かったよ。なにかあってからじゃ遅いからな。ただ、弥生があんなに声を張り上げることなんて初めてだったんで、ちょっと驚いちゃったけどな」


 雅雄は微笑んでこそいたが、その顔からは未だに動揺の色が残っていた。


「本当にごめんなさい」


「いや、いいんだって。それよりも疲れているようなら横にでもなったほうがいいんじゃないか? 礼雄は俺がちゃんと風呂にいれておくからさ」


「そうね。そうさせてもらおうかな。残っているお蕎麦は、あなた食べちゃっていいから」


 夫の優しさに甘えることにした弥生は、礼雄におやすみのキスをするとダイニングを後にした。その間も、こちらには雅雄の心配そうな目線が向けられており、なんとも心苦しい気持ちであった。

 雅雄は先ほどの一件を不審に思っただろうか。いや、もともと鈍い彼のことだ、本当にただの体調不良と思ってくれているだろう。

 そう都合のいいことを考えながらながら、弥生は寝室に入ってベッドに倒れ込む。


 それにしても、あんなに大声を出したのはあの一件以来だろうか。彼を殺してしまってから、もう二度と暴力的な行為はしないと決めていたはずなのにもかかわらず、怒りに身を任せて怒鳴ってしまった。


「ふう」


 弥生は枕に顔をうずめると、気持ちを切り替える為にため息をひとつつく。


 とりあえず、やることは決まった。明日の朝にでもアンテナさんに元刑事の人の住所を確認して訪ねてみるのだ。そして、信頼できそうな人物であればケンジのことを相談してみよう。

 もちろん、過去の殺人の話は伏せてだ。

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