ケンジ
「よろしくお願いします」
「はい、責任をもってお預かりいたします」
昨日と変わらぬ時間に、昨日と変わらぬやりとり。そして、昨日と同じようにバスの背中が見えなくなるまで見送る。
なにもかも同じ状況の中、天気だけはずいぶん違っていた。昨日とはうってかわって、どんよりとした灰色の雲が空一面に漂っている。それでも、天気予報は降水確率10パーセントという低い数字を示しており、昼過ぎには太陽が覗くという話であった。
そういえば、十年前のあの日もくもりだったはずだ。あの時は天気なんて気にしいる余裕などなかったはずなのに、雲が空を覆い尽くしていて、星一つ見えなかったのを覚えていた。
それにしても、昨日、あのときの夢をみてからというもの、礼雄の発言や天気のことですら忌まわしい過去に結びつけてしまっている。
馬鹿な話だと思った。気にしてもしょうがないと、そう結論づけたはずなのに、こびりついた思い出は未だに払拭しきれずにいた。
弥生は、そんな過去を振り払うために、昨日と同じように毎日おこなう家事を思い起こした。
いつも通り早起きをして、いつも通り朝刊をとって、いつも通りイチローに餌を――
弥生は、日課ともなっている行動を頭に浮かべて、すぐに自分が犯したミスに気づいた。というのも、今日は少しだけ寝坊をしてしまったため、普段は朝刊をとるのと同時におこなうイチローの餌やりをすっかり忘れてしまっていたのだ。
自分のミスを取り戻すために早速庭へと向かおうとした。だが、ふとあることに気づき足を止める。
郵便受けから茶封筒がはみ出ているのをみつけたのだ。
――あれ? おかしい。朝刊を取った時には他にはなにも入っていなかったはずなのだが。
そう不審に思いはしたが、それ以上は深く考えずに弥生はその封筒を取り出していた。表には切手や消印どころか宛名すら書いてはおらず、誰かが直接ポストに投函したことがうかがえる。
どことなく不気味な雰囲気に思わず生唾を飲み込む。
これを開けたら不幸になる。直感的にそう思ったが、中身を確認しなくてはという好奇心にも似た義務感が、封を開ける手を動かしていた。
そっと茶封筒の中身をのぞき見ると、大学ノートのページを破ったものが二枚ほど乱雑に折り畳まれていた。
まるで危険物を扱うようにおそるおおる中身を取り出し広げて内容を確認すると、そこの冒頭には、黒いボールペンで紙いっぱいにこう書かれていた。
――十年前のことを覚えているか?
ぐらりと地面が揺れる感覚に陥る。
いったい誰がこんなものを送りつけてきたのか。弥生は必死で考えた。そして、すぐにひとりの人物が頭に浮かんだ。ケンジという名の男で、弥生の過去の罪のことを知っている唯一の人物であった。
倒れてしまいそうな体を門扉で支えながら、それ以降の内容を確認する。
――もし忘れていないのなら
――今度の土曜日の午前11時に
――八十万を持ってこの場所にきてくれ
二枚目の紙には、弥生もたまに利用する、駅前にあるファミリーレストランの『ジェイソン』の地図が書かれていた。
紙を持つ弥生の手は、自分のものとは思えないほどに震えている。その震えは脅迫されているという恐怖と、ケンジの裏切りに対しての怒りによるものだった。
二人だけの秘密だと約束したのに。
あのとき、二人は子どものように指切りをした。あまりにも場にそぐわない行為だったので、不覚にも吹き出してしまったのを今でも覚えている。
弥生は右手を空にかかげると、あのときのことを思い出すかのようにその小指を眺めた。ケンジと指切りをしたそれは、他の指同様にプルプルと小刻みに揺れていた。
そして気付いてしまった。
小指を眺める目の端に、ちらちらと人影がうつっていることにだ。
その人影は、家から20メートルほど先にある丁字路に立っていた。焦点が小指に合わせてあるので定かではないが、じっとこちらを見ているように感じた。
見たくない。確認したくない。そう思っているはずなのに、弥生の視線は自然とそちらに移っていた。
その人物を確認すると、思わず「ひっ」と小さい悲鳴をあげてしまう。
つるつるのスキンヘッドに、同じく一本の毛が生えていない眉。いわゆるソース顔といえるであろう掘りの深い顔。そして、
ケンジの格好は、赤いアロハシャツにハーフパンツといったラフなもので、どこかのリゾート地にでもいるかのような装いにもみえる。その脅迫者というイメージとそぐあわない姿が、かえって恐怖感を煽っているように思えた。
こちらの視線に気づくと、ケンジはにっこりと微笑んでこちらに手を振ってきた。それは、街で友人とたまたま出会ったときと同じフランクな仕草であったが、弥生には不幸が手招きしているようにしか見えなかった。
弥生はゴキブリを連想していた。家にいるのは頭でわかっていても、大抵の人は気にせず生活をしている。だが、一匹発見してしまうと、隠れている他のゴキブリにすら恐怖を感じずにはいられない。
この場合も同じだった。脅迫状の差出人がケンジだとすぐにわかったし、こちらを見つめる人物もケンジであることは頭のどこかで予想はしていた。だが、いざ本人を目の当たりにすると、弥生の中にあった恐怖の感情は体の震え以上の反応を示していた。
急激な吐き気を覚えた弥生は、玄関の扉に体を滑り込ませると鍵を捻り施錠する。普段は使用しないチェーン錠もしっかりとかけ、扉を背にするようにその場でずるずるとしゃがみこんだ。
唾をゆっくり飲み込んで、せり上がってくる吐き気を落ち着かせる。胃が痙攣しているかのような感覚が残っているが、なんとか玄関を汚さずにすんだ。
吐き気と戦っている間も、ケンジがこちらまでやって来て背中の扉をノックするのではないかと気が気でなかった。だが、予想に反し、ノックどころかインターホンすら鳴ることはなかった。
それでも、未だに弥生の体の震えは止まることはない。
いったいどうしたらいいのだろう。八十万円なんて無理な話だ。実際、渋谷家の預金には八十万円以上の蓄えはあるのだが、そんな大金を使ってしまったらすぐに雅雄にばれてしまうだろう。
かといって警察に相談するなんて方法もとることはできない。そんなことをすれば、脅迫されるに至った経緯を根掘り葉掘り聞かれることになるだろう。それこそ自分の首を絞めることになる。
雅雄に真実を話す――これも駄目だ。雅雄はなんだかんだで正義感の強い男だ。過去の罪を打ち明けたら、結局警察に連絡をしてしまうだろう。
ひとつ案を考えても、すぐに穴がみえてしまう。正に八方塞がりの状況といえた。どう辿っていっても、行き着く先は逮捕と離婚という最悪の結末だった。
ふと、自分がイチローの餌やりをしにいこうとしていたことを思い出す。
幸せを持続させるための日課なのだ。怠るわけにはいかない。
そう思って、ドアノブに手を伸ばしゆっくり立ち上がろうとした。だが、腰が抜けてしまったのだろうか、途中で横に倒れるように崩れてしまう。その際、側頭部をげた箱に軽くぶつけてしまった。
痛い。
目から涙が止めどなく溢れてくる。痛くて、恐くて、悲しくて、そんなごちゃ混ぜな感情が嗚咽となって口から流れ出る。
どうしてこんなことになってしまったのか。
自業自得なのはわかっている。
それでも、今のこの幸せが壊れるのは耐えられなかった。
この今の幸せを守るには、自分には人を殺してしまった過去があるということを雅雄と礼雄のふたりには絶対に知られてはいけなかった。
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