不審者
「ママー、バスが来ちゃったよー!」
ようやく完成したお弁当をカバンの中にしまったところで、礼雄の大きなが聞こえてくる。その声にはっとして時計に目をやると、すでに幼稚園の送迎バスが来る時間になっていた。
「あー、もうこんな時間。はい、お弁当入れておいたから。今度は落としちゃだめよ」
礼雄の肩にカバンをかけてあげると、いそいで玄関先まで向かった。
「礼雄くん、おはよー」
元気のいい挨拶とともにバスから降りてきたのは、礼雄の担任の
少しぽっちゃりとした体型で、美人とはいえないが可愛らしい顔立ちをしている。ぱっと見ただけでは学生のようにも見えるが、実年齢は三十をとうに過ぎているらしい。
ちなみに、礼雄の初恋相手がこの小林先生であり、ことあるごとに「大きくなったら小林せんせーと結婚する!」といっている。幼い頃に幼稚園の先生に憧れを持つというのはよくある話ではあるが、弥生は礼雄の「結婚する!」の言葉を聞く度に胸がざわついていた。
「小林先生、おはようございます」
礼雄は深々とおじぎをすると、元気よくバスのステップをかけ上がっていった。
「遅れちゃってすいません。ちょっとバタバタしちゃって」
「いえいえ。朝はお母さん方が一番忙しい時間なことは私もわかってるつもりですから、お気になさらず」
「本当にすいません」
そういって、弥生は礼雄と同じように深く頭をさげた。
「今日も礼雄をよろしくお願いします」
「はい、責任をもってお預かりします」
子どもを預ける際の恒例となっているやりとりをしたところで、小林先生がちょっと深刻そうな顔をみせた。
「小林先生? どうかされたんですか?」
「じつはちょっと気になる話がありまして……」
「なんでしょうか?」
「もしかしたら、すでにご存じかもしれないんですけど、ここ最近、この近辺で不審者が出没しているらしいんですよ」
「不審者ですか? 初耳ですね」
噂好きのご近所さんがいるので、弥生自身もそういった情報には敏感であるつもりであったが、不審者の話は聞いたことはなかった。
「ですので、礼雄くんがお外で遊ぶ時なんかは、なるべくお母さんの目の届く範囲で遊ばせてあげてください」
「物騒な話ですね」
「ええ。私も長年この近くに住んでいますが、こういった話は初めて聞きました」
「それで、その不審者の特徴っていうのは?」
「なんでも若い男だそうで、この周辺をウロウロと歩いているんだそうですよ。そして、すれ違う人の顔をジロジロと見たり、勝手に郵便受けの中を覗いたりしているそうです」
「えー、気持ち悪い。こんな静かな住宅街でも変な人はいるものなんですね」
自分の家の郵便受けを勝手に覗かれていたらと考えただけで、弥生の二の腕には鳥肌が広がっていた。
「わかりました。十分に気をつけるようにます」
「今のところ大きな被害なんかはでてはいないそうですが、なにかあってからでは遅いですからね。念には念をでお願いします。園のほうでは園長先生や男の先生なんかが、定期的に周辺を巡回するようにしていますのでご安心ください」
そういって小林先生は子供のようにニコッと笑った。
それを見た弥生も思わず笑顔になってしまう。彼女の笑顔は人を安心させるものがあった。だからこそ、幼稚園教諭という職業をこなせるのであろう。
「そういうことなので、礼雄くんは責任をもってお預かりいたします」
「はい、よろしくお願いします」
結局、いつものやりとりを最後にすると小林先生はバスへと乗り込んでいった。弥生は、礼雄に窓越しに手を振りながらバスを見送る。
バスが見えなくなると、弥生は「んー」と唸りながら背中を伸ばした。このときが一番ほっとする瞬間であった。朝の忙しい時間が終わり、後はのんびりと掃除などの家事をこなせばいいだけなので、いやでも気が抜けてしまう。
ふと、今朝の夢を思い出す。忘れてしまいたい過去の出来事の夢であったが、今の幸せというものを改めて実感できたように思う。
優しい夫に、可愛らしい息子がいる。これ以上の幸せなんて他にあるだろうか。少し不安なのは、先ほど話題になった不審者のことや、礼雄の滑舌の悪さくらいのことだ。それらにしたって、不審者など自分達に関わりになることはないであろうし、滑舌のことだって成長と共に自然と直ってしまうのであろう。
過去のことなんか気にしていてもしょうがない。大切なのは今の幸せのこと。それが続くことだけ考えていればいいのだ。そして幸せを持続させる為にはいつも通りに過ごせばいいだけ。
いつも通り早起きをして、いつも通り朝刊をとって、いつも通りイチローに餌をやって、いつも通りコーヒーを淹れて、弁当をつくって、礼雄を見送って、その後は掃除したり、買い物したり……。
弥生はそこまで考えると、たまらず苦笑した。
いつもの行動を客観的に頭の中でたどってみると、幸せとはなんだか実につまらないもののようにもみえてしまったからだ。自分では今まで退屈などとは思ったことなどないが、刺激がたりないなと感じたことがないわけでもなかった。
そう意味では十年前のような出来事が起こってもいいかなと、馬鹿げたことを思ってしまっていた。
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