謝らないと……
「ママー!」
雅雄を玄関で見送ったところで、礼雄が階段をドタドタと音をたてながらおりてくる。いつも静かにおりるように注意しているはずなのだが、困ったことに、なかなかいうことを聞いてくれないでいた。
「もう。階段はゆっくりおりなきゃダメでしょ」
「あって……」
そうつぶやくと、礼雄は不満そうに口をへの字に曲げている。
本来なら、もっとしっかりと叱ってあげるべきなのかもしれない。だが、雅雄も弥生も、礼雄に対して怒ったりすることはあまりなかった。
お互い、初めての子どもだからということもあるのだろうが、なにより、礼雄が言葉を覚えるのが少し遅れていたことが原因ではないかと思う。様子をみるとは決めていたが、やはり心配で必要以上に甘やかしてしまいがちだった。
そのためか、礼雄はこういった時にも拗ねるだけで、きちんと謝ることができない性格になってしまっていた。
ただ、弥生のほうもいままで甘やかして育ててしまっていたため、どういう風に叱るべきなのかがわからずにいたのも事実であった。
「……で、どうしたの?」
礼雄の口から「ごえんなさい」の言葉がでてくるのを少し待ってみたが、期待したものは聞けそうになかったので、諦めて話の続きを促す。
「……あのえ、お着替えしようとしたんあけど……うまくえきないの。礼雄、頑張ったんあけど、うまくえきないの」
自分で言い出したことなのにうまくできなかったことが恥ずかしいのであろう。礼雄は下を向きながらごにょごにょと口を動かし喋っていた。
礼雄のいうとおり、幼稚園の制服は腕にこそ通ってはいるものの、正面のボタンはひとつも留まっていない。そのため、Tシャツに描かれている子どもに人気のアニメのキャラクターが、制服の隙間から顔を覗かせていた。
「あー、ボタンはまだ難しかったか」
「うん。ちょっとあけ難しかった」
口を尖らせながらも、再度自分でボタンを留めてみせようとするが、指の間でボタンがもどかしく動くだけで一向に穴に通る気配がない。
「じゃあ、今日はママがやってあげるね」
見かねた弥生は、そういうと礼雄の高さに目線を合わせ頭を撫でた。
「礼雄は、いちえんせいになれない?」
ボタンを留めてあげていると、目を少し潤ませた礼雄が弥生の顔を見つめながら小首を傾げてくる。
その小動物のような仕草に、弥生は自然と笑顔にさせられてしまう。
「そんなことないわよ。春までにボタンを留められるようになればいいんだから」
「ほんと?」
「本当よ」
「よかったー」
礼雄は母親である弥生の言葉にほっと安堵のため息をついた。
「お着替え、えきるように頑張らなきゃ」
「そうね。じゃあ、明日から練習しなくちゃね」
「うん!」
そういって嬉しそうに首を縦に振る。
「はい、できた。お着替えも終わったから、カバンにお弁当入れてきちゃいなさい」
「はーい」
礼雄は右手を垂直にあげて元気よく返事をかえすと、走ってダイニングへと向かっていった。廊下は走らないでと注意しようとしたが、どうせまた拗ねてしまうだけだと思い弥生は黙ってその後ろ姿を見送っていた。
礼雄のためにも叱ってあげるべきなのだろう。弥生もそんなことはわかっていた。だが、怒鳴りつけたり、暴力を振るったりするような親にだけは絶対になりたくなかったのだ。
どうやってしつけをするべきか悩んでいると、不意に「ガシャン」というなにかが落ちる音がダイニングの扉の奥から聞こえてきた。
――まさか。
よぎった嫌な予感をあえて頭から取っ払うと、弥生はすぐにダイニングへと向かった。
そこには、涙目で右往左往している礼雄がいた。そして、その足下には弥生が時間をかけてつくったアンパンの顔をしたヒーローが、面影もなく崩れ落ちていた。
「なにやってるの!」
「……今日のお弁当は、なんあろうっ思って」
予想通り、礼雄が弁当の中身を確認しようと思って手を滑らせてしまったようだ。
ビキビキと頭が痛む。弥生はその痛みに身を任せて怒鳴ってしまいたかったが、額に右手をあててなんとか自分を落ち着かせた。
「お弁当の時間まで我慢してねってママいったじゃない」
「……あって、お弁当、気になったんあもん」
「でも、ママと約束したじゃない? なんでママとのお約束守れないの?」
「あって……」
先ほどの階段の件と同様に、拗ねたように俯くだけで謝ろうとはしてくれない。
これではだめだ。このままでは、きちんと謝ることのできない人間に育ってしまう。今、ちゃんと教えてあげなくてはいけない。
そう思った弥生は、膝を抱えるようにしゃがむと、礼雄の目をまっすぐ見つめる。
礼雄は決まりが悪いのか、すぐに目をそらし床に散り散りとなっているアンパンマンを眺めていた。
「だって、じゃないでしょ。礼雄は約束をちゃんと守れなかったんだから、ごめんなさいって謝らなくちゃだめでしょ」
そんな言葉をかけても、礼雄は無言を通し期待には応えてくれなかった。
どうしたらちゃんと謝ってくれるのか。弥生は思考を巡らせ、息子がいうことをきいてくれそうなひとつの単語を思い出した。
「ねえ、礼雄。悪いことをしたのに謝らない子は一年生にはなれないのよ。それでもいいの?」
「いちえんせい、なれない?」
今まで下を向いていた礼雄の顔がはっと上がり、問いかけるように弥生の目を見返した。
「そうよ。みんな一年生になるのに礼雄だけ幼稚園のままでいの?」
「……いや」
「みんなが大人になっている時も、礼雄だけ幼稚園に通ってるかもしれないけど、それでもいいの?」
「いや!」
「じゃあ、ちゃんとごめんなさいしなきゃダメでしょ?」
「……ごえんなさい」
一年生になれないという文句が効いたようで、礼雄は驚くほど素直に謝罪の言葉を口にしてくれた。
大きな声で怒ったりしなくても、ちゃんと叱ることができるのだとわかり、弥生は叱る立場ではありながらも少し嬉しくなってしまう。これからも、こういうふうにしつけをしていこうと思っていた。
「ママも?」
弥生が感慨にふけっていると、礼雄が不意に尋ねてきた。
「ママも、ちゃんとごえんなさいいえるから、大人になれたの?」
今度は礼雄がこちらの目をじっと見つめて問うてきた。その純真無垢なその目は、弥生にはまぶしく感じてしまう。
言葉が出てこない。
今朝の夢。いや、十年前の事実。礼雄の質問はその過去を思い出させた。
トクントクンと、血液が体を巡る音が一段階速くなったのがわかった。
「ママ?」
しばらく返事をせずにいたので、礼雄が不安そうな声を漏らす。
「……そうね。ママも悪いことしたら、ごめんなさいってちゃんと謝ってきたから大人になれたのよ」
弥生は動揺を隠すように笑顔で答える。だが、礼雄の目を見返すことはできなかった。自分の汚れた過去を見透かされてしまう気がしたからだ。
「わー。ママはすごいんあねー」
そんな弥生を疑うこともなく、礼雄はどこか誇らしげに自分の母親のことを賞賛してくれる。その姿を見ていると胸の奥がチクチクと痛んだ。
「じゃあ、すぐに新しいお弁当をつくってあげるけど、いつもみたいなお弁当はつくれないからね」
「はーい」
居たたまれなくなった弥生は、アンパン顔のヒーローだったものを手早く片づけると、新しい弁当づくりにとりかかる。とはいっても時間もあまりなかったので、残っていた鮭フレークのおにぎりと、電子レンジで温めるだけのおかずを適当に詰め合わせただけのものであった。
ただ、そんな簡単な作業中も弥生の心臓の鼓動は、いつもよりも速いテンポで自身の体を震わせていた。
「今、私は幸せなんだ。……幸せなんだ」
そう自分に言い聞かせながら、弥生は鮭フレークが混じったご飯をきれいな三角に形づけていた。
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